石川梨華的小説 〜 『 Sunny road 』

April10告白
兄妹11六感
ゴメンな12監視
出会い ( part1 )13花火
出会い ( part2 )14喪失
物置小屋15
嫉妬16epilogue
素顔あとがきにかえて
決意

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【 1 】 ― April

「あれ、3時にどこに集合だったっけ?」

「あのなぁ、駅の噴水広場の前に集合だって昨日あれほど俺が言ったじゃねぇか。何ですぐに忘れちまうんだよ?」

「あぁ、そうだったっけ?1ミクロンも記憶の片隅に残ってないや。ワリィワリィ。」

4月20日、俺達はサッカー部に入部した新入部員の歓迎会を開くことになっていた。今年の新入部員は合わせて10人、親交を深める目的で開かれる新入部員歓迎カラオケ大会は毎年の恒例行事になっていた。丁度2年前に俺もこのカラオケ大会に初めて参加したわけなのだが、新入部員は喉が嗄れるまで歌を歌わされ、締めくくりには今後サッカーを続けていくに当たっての抱負などの発言を強要され、ここで何とも手厚い洗礼を受けることとなる。一つ上の学年になって、皆どこか浮かれ気味の心持ちになっているせいで、この催しは毎年否応なく盛り上がることとなる。

俺の名前は『石川晃治』、私立川村学園の3年生だ。サッカーを始めたのは小学校5年生からで、それ以来ずっとサッカーに夢中だった。高校2年の秋からレギュラーとしてキーパーのポジションを任されている。サッカーの先天的な才能があったわけでは無いのだが、俺は持ち前の向上心の高さと、そして目標を達成するための飽くなき努力とによって今の位置を確保することが出来ているのだという自負の気持ちだけはあった。

「石川先輩、今日はヒデオ・ムラタメドレーだけは勘弁してくださいね。あれだけは聴いてるとなんだか疲れがどっと押し寄せてきて...。」

「お、そうかそんなに俺のメドレーが聴きたいのか?うんうん感心な奴だ、今日は特別にお前の耳元で魂の鐘を響かせながら、熱く囁いてやることにしよう。心の準備はいいか?」

「えー、先輩、勘弁してくださいよぉ(;;)。」

明るい歓声が校門の前にこだました。2歩3歩と歩を進めると聞き覚えのある特徴的な声が背後から聞こえてきた。

―― 「お兄ちゃん!まって!」

後ろを振り向くとそこには鞄を小脇に抱え、髪をツインテールに束ねた一人の少女が立っていた。 それは俺の妹の梨華だった。一瞬その場は妙な沈黙に包まれて、サッカー部員25人の視線は妹の梨華と俺とのやり取りに集まった。

「なになに?今日はサッカー部のみんなでどこかに遊びに行くの?」

梨華が目をクリクリとさせて尋ねてきた。

「あぁ、今日は進入部員の歓迎会があるんだ。んなわけで帰りは多分遅くなるなあ。」

俺はぶっきらぼうに答えた。

「えー!そうなの!?お父さんもお母さんも、旅行に出かけてて不用心なんだからさぁ、なるべく早く帰ってきてよね。」

「あぁ。あ、それと今日の晩飯は俺食って帰るから、お前も店屋物でも頼んで適当に食っといてくれ。」

俺がそう言うと梨華は頬を膨らましてこう言った。

「えー!!なぁんだ、せっかく梨華ちゃんが今夜は腕を振るってお料理を作ってあげようかと思っていたのに、食べて帰るんだぁ。...まぁ、しょうがないか、じゃあゆっくりと楽しんできてね。」

「おぅ。」

そこまで話すと梨華は俺の背後にいる野郎共に向かって手を振りながらにこやかにこう叫んだ。

「みなさーん、至らない兄ですけれどもよろしくお願いしますねー!」

「てめッ。」

俺が梨華を捕まえようとすると、梨華は俺の両腕をすり抜けて、小走りで家の方向へと手を振りながら向かっていった。

「ばいばーい!」

「...バ、バイバーイ...。」

進入部員を含めた何人かの野郎共がつられて手を振っている様子を俺は見逃さなかった。

「...フーン、そうかそんなにお前達は、俺の熱唱を心の宝箱の中にしまい込んでおきたいのか...。」

「...あ...。」

「お前ら、今日は朝までコースだ!一生耳元から離れないぐらいに俺の美声をその耳に焼き付けてやる。覚悟しやがれ!」

「ひーー(;;)。」

俺は梨華のいた方向を振り返った。梨華の姿はもう小さくなっていて、暫くすると街の喧騒の中にその姿は消えてしまった。


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【 2 】 ― 兄妹

「あれって先輩の妹さんですよね。名前はなんていうんですか?」

カラオケ屋に着くとすぐに進入部員の加藤がそう俺に尋ねてきた。

「あ。そだよ。名前?何でそんな事聞くんだよ、オイ。」

「いや、そんな深い意味はないですけれども、何となく、その...かわいらしいなぁなんて思ったりしちゃったりして...。」

「はぁ、なんだよそれ。」

そう言ってそれとなく周囲の様子を窺ってみると、皆俺達の会話に何となく聞き耳を立てているような感じがした。そこで、俺は敢えて否定的な意見を言ってみせた。

「かわいい?どこがだよ。まだガキだよ、ガキ。お前、もっと大人の女性に目を向けたほうがよいぞ。うん。」

わざとらしくそんな風に答えた俺だったが、正直妹の梨華は世間一般的に見てかわいい女性の部類に入るのだろうな、ということは何となく分かっていた。全体的に細身で、目がくりっとしていて快活な表情を浮かべる梨華は兄妹である俺の目から見ても、確かにかわいらしいと思う瞬間が多くあった。周囲で聞き耳を立てている野郎共の様子からも分かるように、やはり皆一目見てそれなりに気にかかる存在であることには間違いがないようだった。加藤は涙声でこんな風に続けた。

「あぁ、いいなぁ...。ウチの妹なんて、実のアニキの僕が言うのもなんなんですけれども、そりゃあもぉ...。 自分の本当の妹で無くてもいいから、身内にあんなに可愛い子がいてくれたらなぁ...。もっと色んなこと頑張れるのになぁ...。」

「...そぅ。」

加藤の言葉を聞いて、俺は何かを振り払うかのように低い声でそう一言吐き捨てた。その時俺は加藤の言葉に対して少なからず動揺していた。 『実のアニキ』、『本当の妹』。その2つのキーワードが俺を動揺させる原因だった。


―― 13年前俺の母親はガンを患い、半年間の闘病生活の末に帰らぬ人となった。当時まだ5歳で幼稚園児だった俺は、その現実がうまく自覚出来ずに眠り続ける母親を目の前にして、ただただ早く目覚めてくれることを願っていた。しかし、いつまでたっても母親は眠りから覚めなかった。人々が涙を流し、やがて白い煙となって立ち昇ってゆく母親の存在を目の当たりにして、

『ああ、おかあさんとはもう2度と会うことが出来ないんだ。』

と俺は幼心に感じた。 母親が亡くなってから暫く親父と2人での生活が続いていたが、その生活は親父が、

「晃治、この人が新しいママだよ。」

と言って連れて来た女の人が登場することによって新たな展開を迎えることとなった。その女の人の名前は『斎藤恭子』と言った。そしてその時、恭子さんの胸に抱かれてスヤスヤと眠りについている女の子が梨華だった。 俺とは2つ歳が離れていたから、当時3歳になったばかりだった。恭子さん達が来た当初、俺は親父を含めた3人を敬遠し、1人でいたいと思うことが多くあった。突然目の前に突きつけられた現実を俺は直視することが出来ず、親父や恭子さんの気持ちを考える余裕なんてどこにも無かった。 しかし、冷たく当たる俺に対しても恭子さんは労わるような笑顔と優しい気持ちで接してくれて、俺は、

『この人は悪い人では無いのかもしれない。』

と徐々に思うようになっていた。一緒に生活を始めてから2年程過ぎようとしていたある日、恭子さんの口からこんな言葉が告げられた。

「晃治君にはまだちょっと早いかな。...でも私の本当の気持ち、分かって貰いたいから言っちゃうね。私ね......。」

その時恭子さんの口から告げられた言葉。そのすべての意味を当時の俺は理解することは出来なかったが、その言葉の端々から俺にはこんなことが分かった。恭子さんの元の旦那さんも、俺の母親と同じ病気でこの世を去ったということ。悲しみに打ちひしがれている中、俺の親父の仕事先で親父と恭子さんとが出会ったということ。同じ境遇にある2人が互いに共感し合い、悲しみの中から再び立ち上がろうとして頑張っている2人が徐々に親しくなっていったということ。やがて2人の心が通い合い、お互いに手を取り合って生きていこうと決心したということ―。そんな話を聞いているうちに俺から恭子さんに対する敵対心は薄らいでいて、親父と恭子さんと梨華と俺で、互いに支えあって頑張っていこうという気持ちが芽生えて来るようになっていた。小学校に入ったばかりの多感な頃に感じたそんな感情だったからこそ、俺の気持ちの根底には今でもそんな思いが強く根付いている。それ以来俺達は、4人仲良く暮らしてきた。お互いに相手のやりたい事を尊重し合い、そして協力し合い生活をしてきた。親父と恭子さんが再婚同士だという話題も、それ以降1度たりとも上ったことは無かった。そんな話をする必要性は俺達の間には全く感じられなかった。それぐらい俺達の結束は堅かった。だから、親父と恭子さんと俺は別にして、果たして梨華がそのような事実を理解しているのかどうかということは、誰にも分からなかった。そういった諸々の事象を理解し把握するには、当時の梨華はあまりにも幼すぎた。だから梨華はそういった事実は知らないし、敢えてその事実を告げる必要も無いだろうというのが、誰も口には出さないが、暗黙のうちに3人の共通観念として存在していた。そんなことを気にする必要性は全く無いし、その事実を口にして4人で築いてきたものを揺らがせるようなことを誰もしたいとは思ってはいなかったのだ。


―― 「あ、先輩。次、先輩の番ですよ。」

「あ、おう。」

加藤がマイクを差し出したので、俺はアイスコーヒーを一口飲んで落ち着きを取り戻し、マイクを受け取ってステージへと向かった。”HM-5050”。大画面に表示される『王将』と刻まれた将棋の駒。

「おえーー、出たよ...。」

何人かの切迫とも落胆とも判断のつかない何ともいえない喚声。俺は満面の笑みで、ヒデオ・ムラタメドレーを心行くまで堪能することにした。


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【 3 】 ― ゴメンな

「ただいまー。」

時刻は夜の10時半をまわっていた。翌日が日曜日でしかも部活の練習が休みということもあり、俺達はカラオケの後に軽い食事をした。梨華には何か何か適当に食べておけと言っておいたので、今ごろは食事を済ませて自分の部屋の中にでもいるのだろうと俺は思っていた。ところが俺が玄関に入るとすぐに、

「お帰りなさ〜い。」

という言葉とともに梨華がトテトテと玄関先に歩み寄ってきた。

「おう。自分の部屋にいたんじゃなかったのか。」

そう俺が言うと梨華はニコニコ顔で、

「うん、テレビ見てたの。ねぇねぇ、お兄ちゃん、明日駅前にお買い物に行かない?すごーくかわいいバッグが売っているお店があるの。ピンクの花柄のやつでね、明日そのお店に行って 『番組を見た。』って言えば15%OFFになるんだって!もともとそんなに高いものじゃないし、ねぇいいでしょう?明日ちょっと付き合ってよ♪」

梨華はそこまでいっぺんに言うと俺の顔色を窺った。

「ちょ、ちょいと待て。とりあえず詳しい話はリビングでだな―。」

「あー!!」

梨華は何かを思い出したかのように突然叫んだ。

「お兄ちゃん、ご飯は?」

上目遣いでそう梨華が尋ねてきた。

『ああ、もう食べてきたよ。』

そう口にしそうになったところで俺はハッと口を噤んだ。

『ひょっとして...。』

俺はある考えが思い当たり咄嗟に別の言葉を口にしていた。

「いや、まだだけど、なんかあるのか?」

梨華は満面の笑みで答えた。

「よかった〜。ひょっとしたら食べてないんじゃないかと思って、おにぎりと簡単なお惣菜とかを作っておいたのー。お味噌汁も温めればすぐに食べれるよ。」

「そうか。サンキュー。」

梨華はそういうところが実に気の効く妹だった。『もしお兄ちゃんがお腹をすかせて帰ってきたら・・・』などときっと考えたのだろう。俺も丁度、腹の中がなにか物足りないと感じているところだったし、渡りに船だな、と思い梨華の手料理を俺は食べることにした。

キッチンに入ると梨華はすぐにガスコンロをひねり、味噌汁を温め始めた。俺はテーブルの椅子に腰をおろし、料理が出てくるのを待った。

「サッカー部の新入部員って何人いるの?」

コンロの火加減を見ながら梨華が話し掛けてきた。

「んあ?今年は10人だなぁ。まぁ夏休み明けまでには一体何人残ってることやら...」

「ふーん、そうかぁ、10人かぁ。いいなぁ、陸上部なんてねぇ、新入部員が6人でそのうち女子が私を合わせてたったの2人だけなんだよぉ。その子は100M走をやりたいって言ってるから、走り高跳びをやりたいって思っている女の子って私1人だけなんだよぉ。なぁんかさみしーよねー。」

「ふーんそうなんか。そりゃまた少ないなぁ。」

梨華は中学校時代から陸上で走り高跳びをやっていた。県の大会でも何度か入賞したことがあり、その方面での才能の開花も高校の入学と同時に周囲から期待されていた。

「まぁ、でもいいじゃないか。自分のことを信じてやれるだけやってみたら。きっと得るものは大きいと思うぞ。」

「うん。そうだよね。やっぱりやれるだけのことはやらないと。あれをやっておけば良かった、なんて後悔だけはしたくないもんね。よっしゃあ!がんばろぉっと!。」

『グツグツグツグツ...。』

その時味噌汁の沸騰する音が聞こえてきた。

「あ、お味噌汁も温まったみたい。ちょっと待っててね。」

そう言って梨華は食材を運んできた。俺の目の前にはおにぎりが2つと出し巻き卵、キンピラごぼうとサラダ、それにわかめの味噌汁が並んだ。母親に料理を習っているためか、梨華の料理は16歳とは思えないほどに手が込んでいて、その味も2重丸をあげたいぐらいに、非常にシンプルな素材を生かした味付けだった。

「いっただっきm―。」

『ぐーー。』

箸をつけようとしたその瞬間、俺の正面から外国の恵まれない子供達を連想させるかのような、空腹感をうったえるおなかの音が聞こえてきた。梨華がお腹を手で抑えて俺の方を見ている。

「そういえば...私もまだご飯食べていないんだったぁ。匂い嗅いでたら、ハァァ...。私もご飯たーべよっとぉ♪」

そう言って梨華は自分の分の食事も食卓に並べ始めた。

「なんだ、なんだぁ!お前まだ飯食べて無かったのかよぉ!もう11時近くになるぞ。何で先に1人で飯を食べて無かったんだよ!」

『パクパクパクパク...。』

おにぎりを頬張りながら梨華はこう言った。

「だってぇ...1人で食べるよりも2人で食べた方が、おいしいじゃん。自分で作った料理を自分1人で食べるのって、結構寂しいもんなんだよぅ。」

節目がちに梨華はそう答えた。

「......。」

その言葉を聞いて俺は何も言えなくなってしまった。

『ゴメンな。バカなアニキで...。』

俺はキンピラごぼうを口にした。

「ん!んまいな、このキンピラごぼう!梨華ちゃんまた料理の腕をあげたねぇ!!」

「ホントぉ!!よかったぁ!!」

梨華はニコニコ顔になり俺と同じようにキンピラごぼうをつまんだ。

「あ、お兄ちゃんさっきのバッグの話だけどね、10時ぐらいにはお家を出ようと思うんだけど大丈夫だよね?お休みだからきっと人が多いよねぇ。」

「ええー、やだよう、そんな朝早くから行動するなんて。もっとこう休日はゆっくりと寝て、鋭気を養ってだなあ―。」

「だ・め!朝からお出かけするの!もう決定なの!分かったぁ?」

「...ハイ。」

梨華の気迫に押されて俺は渋々了承した。


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【 4 】 ― 出会い ( part1 )

6月も半ばになり梅雨特有のどんよりとした天候が続いていた。咲き誇るあじさいの横を、2ヶ月前に一緒に買いに行った花柄のバッグを脇に抱えた梨華が通り過ぎる。

「あーあ、嫌だよね〜梅雨って、天気と一緒で何か気分までどんよりしちゃう。」

梨華が節目がちにそう呟く。

「そうだな。梅雨なんか早いとこ明けて、真夏の太陽を拝みたいもんだよな。」

朝の通学路、最寄のバス停まで俺と梨華は大抵一緒に歩いて行く。家からバス停までは徒歩、バスに乗って数十分の所にある学校前の停留所で降りる。 そしてそこから歩いて5分ほどの所に俺達の通う高校がある。通学にそれほどの時間を要するわけではないのだが、鮨詰め状態のバスの中は毎日ともなるとさすがに辟易してしまう。しかもこの季節、ジメジメとした車内はアルプスの少女も一気に5歳ぐらいは老け込むことは間違いないと言えるぐらいに、圧倒的なフラストレーションと嫌悪感に支配されていた。

「ねぇねぇお兄ちゃん、今年の夏は一緒に海に行こうね。去年は受験勉強で無理だったから、今年こそは真夏の海でハジケルぞー!」

「おいおい梨華、ハジケルって大概にしとけよお前。もう16なんだからなあ、もうちょっとこう節度を持ってだなあ...。」

実際、俺はあまり梨華には水着姿にはなって欲しくなかった。梨華が水着を着ると、周囲の野郎共の視線が痛いほどに集中し、俺は警戒心で一杯になって非常にくたびれる羽目になる。 その顔立ちと、スタイルの良さからそういったことになるのだろうが、隣にいる俺はそういった野郎共の敵対心を一身に受けることになる。 だから俺は梨華と一緒に海に行くことをあまり快くは思わなかった。

「えーー。何が節度よ!私まだ16よ!16!!今ハジケ無くていつハジケルってい―。」

梨華がそう言いながら曲がり角に迫った時だった。俺達の右手、丁度梨華がいる方向の交差点から黒い人影が忽然として現れた。俺が『危ない!』と思った瞬間にはもう遅く、梨華とその黒い影は激突し、梨華は道端に倒れこんでしまった。

「アイタタタ...。」

尻餅を着いた梨華に俺は言った。

「おい梨華、大丈夫か?!」

梨華は尻餅を着きながらも笑顔でこう答えた。

「...うん、大丈夫。ごめんねお兄ちゃん、ちょっと手を貸してもらえる?」

そう言って梨華は右手を差し出した。 梨華の右手を握って、俺は梨華を抱え起こした。梨華の無事を確認した俺は、梨華を倒しこんだその黒い影の人物に向かってこう怒鳴った。

「アブネエじゃねえかよ!いきなり飛び出してくるなんてよ!ウチの妹にもしものことがあったら、あんたどう責任取るつもりなんだ!?」

俺は周囲の視線など気にすることなく怒鳴り散らした。

「お兄ちゃん、私大丈夫だから。」

俺の剣幕を目の当たりにした梨華が慌てて割って入った。

「す、すみません。大丈夫ですか?」

そう言ってそいつは梨華に対して頭を下げた。

「本当にすいません。怪我は無いですか?」

そいつは梨華の方に向き直って、改めて深々と頭を下げた。謝った人物は学生服を着た、俺と同じぐらいの歳の男だった。多少冷静さを取り戻した俺は、頭を下げている男の顔を見て、ハッとした。

「本間?本間か?お前西南学園の本間じゃないか?」

俺がそう言うとその男は頭を上げて、俺の顔を確認した。

「石川先輩...ですか?すみません、俺この辺の道まだ慣れていないもんですから。妹さん大丈夫ですか?」

その男は俺が知りすぎていると言っても過言ではないほどに、よく知っている男だった。この男の名前は『本間啓一』、今は俺より一つ年下で高校2年生、県内でも有数のサッカーの実力校である西南学園のサッカー部で、ゴールキーパーのレギュラーポジションを任されていた男だ。 本間は名門西南学園にあって、1年生の時からレギュラーポジションを任されるという実力者だった。地区予選や練習試合等で何度か対戦したことはあったが、俺達は一度たりとも西南学園に勝利したことは無かった。 体のキレ、判断力、どれをとっても本間は県内でも指折りのゴールキーパーであることには間違いが無かった。 西南学園とこことは距離的にかなりの隔たりがあった。そんな場所でいきなり本間と出くわしたわけだから、俺の驚きも尋常ではなかった。

「なんでお前がこんな所にいるんだよ。西南っていったらここから相当離れてるぜ。」

本間は多少落ち着いた感じで説明を始めた。

「親の仕事の都合で、今度この近くに引っ越してきたんです。で、学校も川村学園に編入することになって...。」

そこまで言った所で本間は梨華の方に向き直って、また改めて頭を下げた。

「本当にごめんなさい。大丈夫ですか?怪我は無いですか?」

「あ、大丈夫ですよ。私もボーっとしていたのがいけないんです。気にしないで下さい。」

梨華がそう言うと本間は頭を上げて改めて梨華の顔を直視した。梨華の顔を見た瞬間、本間の動きが一瞬止まった。まるでネジを巻くのを忘れたゼンマイ人形のように、本間は数秒の間微動だにしなかった。空白の時間が何秒か流れ、本間の様子が心配になった俺はその左肩を揺すってやった。

「おい!どうしたんだよ本間!」

やっとのことで我に返った本間は、取り乱した様子でこんな風に梨華に対して言った。

「あ、あの、ホントごめんなさい。もう行かなきゃ。...あ、あのお名前は?」

本間が急にそんなことを聞いてきたので梨華も慌ててそれに答えた。

「あ、梨華です。石川梨華です。」

「石川、梨華さん...。」

梨華の名前を反芻するかのように本間はそんな言葉を口の中でモゴモゴと繰り返した。

「...あ!じゃあ自分急ぎますんで!石川先輩、梨華さん、また学校で!」

そう言って本間はバス停に向かって走り出していた。

「あいつ、また急に走り出して...。また人とぶつかったりしなきゃいいけどな。」

「......。」

俺の言葉に梨華は反応を示さなかった。本間にしても梨華にしても、明らかに様子がおかしかった。

「...っておい、梨華!どうしたんだよ!。」

俺が大声で問い掛けると、やっと梨華は反応を示した。

「あ、うん、ちょっとびっくりしちゃって。急なことで驚いたけど...。」

「ああ。」

「驚いたけど、でも...。」

「でも?」

「何か感じのいい人だったね......お兄ちゃん。」

「...おい!梨華遅れるぞ!ほら、走るぞ!」

「あ、待ってお兄ちゃん!」

そう言って俺は走り出した。本間と梨華が衝突したこと、それは単なる偶然に過ぎなかった。でも俺は何故自分の胸がこれほどまでに高鳴っているのか、そのことを自分自身に正当に説明出来るだけの、適当な理由がどこにも見つからなかった。


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【 5 】 ― 出会い ( part2 )

その日の放課後、俺達がいつものように部活の練習をしていると監督が突然集合の声をかけた。

「おーい、みんなちょっと集まってくれ。」

俺達は練習を中断して監督の周囲に集合した。監督の背後には本間の姿があった。その姿を見て、事情を知らない連中が驚きの声をあげた。そんな中監督が事情を説明するべく口を開いた。

「今日からうちのサッカー部に入ることになった本間啓一君だ。本間君はかつて西南学園でゴールキーパーのレギュラーポジションをやっていたから、すでに知っている人間も多いだろう。じゃ、本間君の方から挨拶をしてもらおう。」

そう言うと監督は一歩下がって本間の肩を軽くポンと叩いた。それに答えるかのように本間が口を開く。

「えっと、本間啓一です。皆さんよろしくお願いします。共に切磋琢磨しあって、実りの多い練習をしていきましょう。」

淀みの無い口調で本間がそう言うと、周囲から 『おおっ』 という歓声が上がった。本間の自己紹介が終わると皆が本間の周囲に集まり、編入の経緯だとか西南での練習内容等をそれぞれに尋ね始めた。名門校からの編入ということもあり、本間の周りにはあっという間に人だかりが出来た。そんな雑然とした雰囲気の中、監督が俺の方にやってきて、こう語りかけた。

「石川、正念場だな。俺は今までのお前の活躍は勿論知っているし、本間の活躍も知っている。 これから先はお前と本間、そしてサブも含めて、本当に実力のあるやつにゴールキーパーのレギュラーポジションを任せることにする。お前の頑張り、期待してるぞ。」

「勿論っスよ。俺だって俄然、熱くなってきましたよ。本間には絶対に負けませんよ!」

そんな俺の言葉を聞いて監督はニッコリと微笑むと、俺の肩をポンポンと叩いてベンチの方へと下がっていった。

「あっ、お兄ちゃーーん!」

聞き覚えのある声に振り返ると、梨華がパイロンを抱えながらこちらに向かっていた。

「おう、梨華。」

そう俺が答えると、梨華は小走りにこちらにやって来た。パイロンを足元に置くと、

「ちょっとお兄ちゃんも手伝ってよ、これ運ぶの。かよわい女の子にこんなもの運ばせるだなんて、酷いとは思わない?」

梨華は大袈裟に肩を叩きながらそう言った。

「愚痴を言うな、愚痴を。それだって練習の一環だろうが。1年坊主。」

「ブー。酷いよね、酷いよね。これってきっと”労働基準法”とか”ワシントン条約”違反だよね、真希ちゃん。」

そう言って梨華は後ろで同じようにパイロンを運んでいる女の子に語りかけた。

「いや、”ワシントン条約”って...。なにあんたはワールドワイドな視点から物事を語ってるのよ!」

そう言ってその子は梨華の2倍の数はあるであろうパイロンを足元にドサッと置いた。

「あ、お兄ちゃん、前に話したでしょ?私と一緒に陸上部に入部した女の子がいるって。この子がそうなの。真希ちゃんっていうの、よろしくね♪。」

「『よろしくね♪』って、あんたはアタシの保護者か!?」

適切なツッコミを入れると、その子は改めて俺の方に向き直って挨拶をした。

「始めまして。後藤真希と言います。梨華ちゃんには同じ陸上部でいつもお世話になっています。」

そう言うと後藤は丁寧に、ペコリと頭を下げた。後藤を一目見て、利発そうな子だなぁという印象を俺は受けた。梨華と同い年には見えないぐらい大人っぽくて落ち着いた、どこか含蓄のある雰囲気を全体的に持っていて、人を諭すのに充分な説得力を持つ力強い瞳を具えていた。そしてその瞳以上に、一目見て俺の印象に強く残ったのは、その耳の形だった。ポニーテールに髪の毛を束ねているせいもあって、後藤の耳は良く見えていた。きれいな半月方をしたその耳は、見ているだけで安心するような、心地よい印象を俺に植え付けた。そんな風に後藤を見ているうちに、俺は胸の鼓動が速まっていくのを感じた。

『あれ?なんかドキドキしてるゾ?』

俺は、自分の胸の動悸をごまかすかのようにこう言い放った。

「あ、いえいえ、こちらこそ、いつもウチの天然ボケ娘がお世話になってます。」

「そうそう、天然ボケ娘が...って、おおぃ!」

梨華がそう言ってつっこんできた。

「お、梨華ちゃん、とうとう乗りツッコミを習得したね。俺もうかうかしてられないな...。」

いつものペースを失いかけていた俺は、梨華にネタを振ることで何となくいつもの自分らしさを取り戻すことが出来た。

「クスクス......。」

そんな時、俺達のやり取りを見ていた後藤が唐突に笑い始めた。その笑顔は真夏の青空のように屈託が無くて、それを見た俺は、また自分の胸の高鳴りと戦わなければならなかった。

「梨華ちゃん、ホント、お兄さんと仲がいいんだね。なーんか羨ましいな。」

そんな後藤の言葉に梨華は腕組みをして反論した。

「何言ってるの。私いつも家とかじゃいじめられているんだよ。人をいじめる才能に関しては、お兄ちゃんてホント天才的なんだから。」

「あんだと。」

そう言って俺が梨華の頭を叩こうとした時だった。

「石川先輩、練習再会するみたいですよ。」

そう言って本間が俺の後ろから駆け寄ってきた。

「おう。」

俺は振り返って本間にそう答えたのだが、梨華の存在に気付いた本間は、俺の答えが聞こえていないかのような様子で梨華に話し掛けてきた。

「あれ?梨華さんじゃないですか。そんな格好して、どこかの運動部に入っているんですか?」

ジャージ姿の梨華を見て、本間はそう言った。

「あ、はい。私陸上部に入ってるんです。今友達と荷物運んでる途中でお兄ちゃんとバッタリ会って...。」

梨華は急にしおらしい態度になって、そう答えた。

「へえ、そうなんですか。」

本間はそう言ってニッコリと微笑んだ。

「梨華ちゃーん、そろそろ行って準備しないと先輩に怒られるよ!」

梨華の背後にいた後藤がそう言って梨華を呼んだ。

「......あれ?真希!?真希じゃないか!」

本間が突然そう叫んだ。俺と梨華は呆気にとられて本間と後藤のやり取りを窺った。

「あれぇ?啓ちゃんじゃない。何で啓ちゃんが川村学園にいるの?」

そう言って後藤が梨華の背後からピョコッと顔を覗かせた。

「親の仕事の都合でこの近くに引っ越してきたんだよ。そうか、お前も今年高校に入学したんだったよな。」

「そうだよぉ。なぁんか啓ちゃん、ここのところご飯も食べにきてくれないじゃん。昔はよく食べに来てくれたのに。ほぉんと、『久しぶり』って感じだねー。」

2人の様子を窺っていた俺は、話の途切れるタイミングを待って、胸の中に湧いていた疑問を2人にぶつけることにした。

「え?2人って顔見知りなの?」

そんな俺の質問に本間が答えた。

「はい。ガキの頃から俺こいつの家の隣に住んでいて、昔はホント兄妹みたいに仲良く遊んでいたんです。家族ぐるみで一緒に旅行に行ったりだとか、食事をしたりだとかも割と頻繁にしてました。だからこいつとは本当の兄妹みたいなもんで。」

「そうそう。でも私が中学校2年生の時に急に引越しすることになっちゃって。その引越し以来あまり会えなくなっちゃったんだよね。ご飯とかはたまに食べに来てくれてたりとかしたけど。」

2人の間の空気には余計な遠慮だとか、回りくどい言い回しだとかは微塵も感じられなくて、本当にお互いの家同士、良い付き合いをしていたのだろうということを想像するのに充分な親密さが感じられた。

「おーーい!石川、本間、練習再開するぞーー!!」

その時遠くから監督が叫ぶ声が聞こえてきた。

「やべ、本間そろそろ行かないと!」

「じゃ、お兄ちゃん、本間さん、私達もそろそろ行くね。」

俺と本間、そして梨華と後藤はそれぞれの向かうべき方向に歩み始めていた。

「じゃ、梨華さん、今度またゆっくりと。」

「はい、それじゃ。」

梨華と本間はお互いに手を挙げて挨拶をした。俺と後藤も言葉は交わさなかったけれども、お互いに目配せをして軽く頭を下げた。 俺と後藤そして本間と梨華の4人はこうして出会った。新たな出会いがこれまでの風向きを変えようとしていることに、俺自身はおろかここにいる4人の誰もが気がついていなかった。

― 7月の熱い太陽の輝きはもう目の前までやって来ていた。


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【 6 】 ― 物置小屋

後藤と初めて出会った日から数日後の夕暮れ時、俺は1人でラインカーやらバトンやらの荷物を運んでいる後藤の姿を見つけた。辺りは薄暗くなっていたが、後藤の周りには荷物運びを手伝っている人間の姿は無かった。 俺は後藤の近くに寄って行って声をかけた。

「お疲れさん。荷物運び?」

俺の声に気付いた後藤は俺の存在を確認すると、こう答えた。

「あ、お疲れ様です。時間がもったいないから一度に運んじゃおうかと思って、それでまあ、こんな感じなんですけど。」

後藤は両手が塞がっている状態で、抱えている荷物の隙間から顔を覗かせてニッコリと微笑んだ。その様子を見て、不憫に思った俺は後藤の側に歩み寄りこう言った。

「手伝うよ。そっちの荷物かして。」

「あ、いいですよ。1人で大丈夫ですから。」

後藤は遠慮してそう言ったのだが、俺は後藤の片方の手に抱えられている荷物を半ば強引に受け取ると、それを自分の胸元に納めた。

「っしょっと。結構重いじゃん。1人であんま無理すんなって。」

俺がそんな風に言うと、後藤はちょこっと頭を下げて礼を言ってきた。

「先輩陸上部と全然関係が無いのに、荷物なんか運ばせちゃって...。何かすみません。でも...ありがとうございます。」

暗い夜道を俺と後藤の2人は、体育倉庫の方に向かって歩き始めていた。

「でも何でたった1人で荷物運びなんてしてるんだよ。もっと他の人間に手伝ってもらえばいいのに。」

胸の内にあった率直な疑問を、俺は後藤にぶつけていた。すると後藤は、

「いいんですよ。みんな練習で疲れてるし、後片付けをする元気もあんまり残ってないから。」

と答えた。

「『疲れてる』って、後藤だって皆と同じように練習して疲れてるんだろ?なのにたった1人で後片付けしてるなんて、おかしいじゃないか。」

俺がそう言うと後藤はニッコリと笑って、

「ううん。いいんです。私こう見えて結構元気なんですよ。それに後片付けとかも結構好きだし。私が進んでやってることなんですよ。」

と答えた。あまりにも真直ぐな笑顔だったので、俺はそれ以上何も言うことが出来なくなってしまった。すると後藤は

「いつもはね、『1人で大丈夫だよ』って言ってるんですけど、梨華ちゃんがそれでも手伝ってくれるんですよ。今日は何か用事があって、練習休んでるんですけどね。 梨華ちゃん、ホント優しくていい子ですよね。」

と続けた。

「家ではワガママばかり言ってるからな。頑張ってる後藤の手伝いをして、それで丁度つり合いが取れてるんだから、梨華にしても本望だろうよ。」

俺が冗談っぽくそう言うと、後藤はクスクスと笑った。

「先輩と梨華ちゃんって、ホント面白いですよね。2人の話を聞いてるだけで、何だかこっちまで楽しくなってくるもん。」

「梨華がお笑い系のキャラだからなあ。」

俺は渋めの口調でそう返した。

「どっちが?!」

後藤がそう言ってつっこむと、2人は声を合わせて笑った。一見するとクールそうなイメージを受ける後藤だったが、こうして健気に縁の下の力持ち的な役割を買って出たり、俺のくだらない話にもケラケラと明るく笑ってくれたりと、実際のところ色々な細かいことによく気が付いて、そして明るくよく笑う素直な女の子だった。俺は隣にいて話をするだけで、本当に心が洗われるような気持ちだった。それは生まれ持った天性のもの、そして日々の生活の中で自然と身に着けてきたものなのだろうが、後藤には人を純化して、話をしている人間が自分自身のことをもっと好きになるような、そんな不思議な能力が備わっているような気がした。

そうこうするうちに俺達は体育倉庫の前までやって来ていた。俺が抱えている荷物を地面に置いて、体育倉庫のシャッターを上げようとした瞬間、後藤がその行動を制した。

「あ、先輩違うんです。これ体育倉庫にしまうんじゃないんですよ。」

「へ?じゃあ何処に持ってくの?」

「体育倉庫の裏手に物置小屋があるじゃないですか。これはそっちにしまっておくんですよ。」

「ん?......ああ、あそこか。」

体育倉庫の裏には木造の物置小屋が一軒建っていた。運動用品等は体育倉庫にしまっておくことが普通だったため、俺はそんな建物の存在すら殆ど忘れかけていた。

「あんな所使ってるのか?」

俺は、そう後藤に聞いてみた。

「うん。ほら陸上部って色々と使うものが多いじゃないですか。体育倉庫に入りきらなくなったものとかこういう細々としたものは、あそこを利用して保管しているんですよ。」

「へぇ、そうなんだ。」

俺は納得して頷いて見せた。体育倉庫の裏手に回ると古びた木造の物置小屋が姿を現した。パッと見たところ8坪程の大きさで、板張りの壁は黒っぽく変色し、所々表面が削げ落ちている部分もあった。建物自体の老朽化は、かなり進んでいるように見えた。そしてその物置小屋の横には、古い建物に似つかわしい大きな杉の木が1本生えていた。高さ20mはあろうかというその杉の木は、物置小屋から僅か5m程の所にどっしりと根を下ろし、その枝は包み込むような感じで建物の上空を覆っていた。暗闇に聳え立つ大木は、圧倒的な威圧感を周囲に振りまいていた。後藤は滑りの悪い引き戸を引っ張り、入り口の左手付近にある電灯のスイッチを手探りで探した。暗闇の中、後藤は慣れた様子でスイッチを探し当てると、室内の電灯を点けた。室内は外観から予想していたよりはずっときれいに整理整頓されており、それぞれの棚に色々な用品が几帳面に並べられていた。

「よいっしょっと。これで良しと。」

後藤は手際よく整理を済ますと、俺に向かって改めて頭を下げた。

「本当にありがとうございました、先輩。」

「ああ、いいっていいって。それより後藤、途中まで送っていこうか?夜道に女の子1人だと色々と物騒だろ?」

1人ぼっちで夜の道を歩く後藤の姿を想像して、俺はそんな風に言った。

「ううん、大丈夫ですよ。こう見えて私、結構強いんですから。」

そう言って後藤は自分の胸をドンと叩いた。

「ん。そっか。」

無理強いするのはよくないと考えた俺はそう言って先に外に出て、後藤が電気を消して外に出てくるのを待った。後藤は電気を消し、強く引き戸を引っ張った。開ける時は滑りが悪かったのだが、閉める時には引き戸は勢い良く滑り、ピシャリと閉まった。 『ガタガタガタ』と物置小屋の屋根の方から大きな物音が響いてきたのは、戸が勢い良く閉まったその瞬間だった。 恐らくは猫か何かが、戸の閉まる音に驚いて屋根の上から走って逃げ出した物音だったのだろうが、その物音は静かな夜の校庭の片隅に反響した。

「きゃっっ!!」

その物音を聞いた瞬間に、後藤は驚いてその場に座り込んでしまった。

「ハハハハハ...大丈夫だよ後藤。きっと猫か何かだろう。立てる?」

俺がそう聞くと後藤はフルフルと頭を振った。

「...何か腰が...。」

どうやら後藤は突然の物音に驚いて、腰を抜かしてしまったようだった。

「大丈夫か?立てるか?」

そう言って俺は後藤の手を握り、座り込んだままの後藤を抱え起こした。

「やっぱ途中まで送って行こうか...?」

俺がそう言うと、今度は後藤が無言でコクリと頷いた。後藤は弱々しい子犬のような怯えた表情を浮かべていた。結局その日、俺は自宅とは正反対に位置する後藤の家まで、彼女を送り届けることとなった。


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【 7 】 ― 嫉妬

「こっ、今度の日曜日、一緒に遊園地に行きませんか?」

真面目な口調で本間がそう言った。練習終了後のロッカールーム、本間があまりにも真剣な眼差しだったので、俺は答えに窮した。

「....え、いや、それはまずいだろう。だって俺達男同士だぞ。お前の気持ちに俺は答えることは出来ないよ。それに...。」

俺がそんな風に答えると、本間はキョトンとした表情で俺の顔を見つめた。

「プッ、アハハハハハ、違いますよ石川先輩!俺達2人でってことじゃなくて、石川先輩と俺、それに梨華さんと真希の4人で行きませんかってことですよ。」

俺はホッと胸をなでおろすと、今の会話が他の誰かに聞かれてはいないかと、ロッカールームの中をぐるりと見回した。幸い、ロッカールームの中には俺と本間の2人だけしかいなかった。

「別に俺は構わないよ。」

周りに誰もいないことは確認したのだが、俺は何となくヒソヒソ声でそう答えた。

「そうですか。じゃあ俺は真希のこと誘ってみるんで、石川先輩は梨華さんのこと誘ってみてくれますか?」

本間も俺につられて声を細めていた。

「ああ、いいよ。」

それを聞いた本間は、指をパチンと鳴らすとはりきってこう言った。

「じゃあ2人の返事を聞いて明日の放課後、部活の練習の前にでも詳しい話をしましょうよ。いや〜楽しみだなあ。」

まだその話が確定したというわけでは無かったのだが、本間は本当に嬉しそうな表情を浮かべていた。着替えを済ませた俺達は夜道を並んで、自分達の家の方向に向かって歩き始めた。街の空気は、初夏の訪れを感じさせる爽やかなものにその雰囲気を変え始めていた。並んで歩いてると本間がこう尋ねてきた。

「梨華さんって小さい頃はどんな子だったんですか。」

俺は少し考えて本間の問いに答えた。

「そうだなあ。あいつは小さい頃は本当に泣き虫で、よく悪ガキにいじめられてはピーピー泣いていたよ。まあ、あいつを泣かせたやつは俺がそれを10倍返しにして泣かせてやったけどな。」

「へー、そうなんですか。」

「...でもあることをきっかけに、あいつは簡単には泣かないようになったんだ。」

「あることって何ですか?」

本間の問いかけが発端となり、俺は昔の出来事を思い返していた。


― その日も梨華は近所に住む悪ガキにいじめられて、泣きながら家に帰ってきた。

「ハナちゃんを盗られちゃったの。」

『ハナちゃん』、それは当時梨華が大事にしていた人形のことだった。後から知ったことなのだが、それは梨華の実の父親が買い与えてくれた人形らしかった。物心がついた頃から生活を共にしていた人形を盗られたことで、梨華はひどいショックを受けていた。しかもその人形を奪ったやつというのが、つい先日梨華を泣かせて、俺が殴り倒してやった奴だということだった。

『ちっ、こりねえ野郎だ』

俺はそいつの家に電話をかけると、近くの空き地に来るように呼びつけた。夕方頃その空き地に行くとそいつはすでにやって来ていた。そいつは俺より2つ年上で、体格も比較的ガッチリとしていた。 ただこの間、そいつのことを倒したこともあったので俺にはそれなりの自信があった。

「人形持ってきたか?」

俺の問いかけにそいつは背後から人形を取り出して、首のところを持ってブラブラとさせた。

「欲しけりゃ返してやるよ。」

そいつがそう言ったところで物陰から数人の人影が現れた。

「ただし全員倒すことが出来たらな。」

3対1、あきらかに数的不利だった。年齢的にも体格的にも俺1人では歯が立ちそうになかった。

『これはひとまず逃げた方がいいか?』

そんな考えが一瞬俺の頭をよぎった。しかし、

『 ― おにいちゃん ― 』

梨華の泣き顔が頭の中に浮かんだ俺は、後先を考えずに3人に殴りかかっていた。梨華を悲しませるようなことをする奴は許しちゃおけない、俺はただそんな考えの元に行動していた。後にも先にも自分よりも体格のいい相手を3人も打ち負かしたのはその時だけだった。 人形は取り返すことが出来た、今後梨華を泣かせないことも約束させた。ただ俺がボコボコにされたのは勿論のこと、人形も腕だとか足の部分が取れかかっていた。家に着くと顔中あざだらけの俺を見て恭子さんが驚きの声をあげた。恭子さんは俺の顔を消毒して、腫れている部分をタオルで冷やしてくれた。親父はといえば、やれやれまたかといった感じで深いため息を一つついただけだった。リビングの隅のほうでその様子を見ていた梨華はただただ泣き続けるばかりだった。ひとしきり喧嘩の理由などを恭子さんに聞かれたが、俺が何も答えないことが分かると親父が、

「もう部屋に戻って、ゆっくり休みなさい。」

と言った。その言葉を聞いて俺と梨華は自分達の子供部屋に戻っていった。部屋に戻ってベッドの上に座ると、俺は腫れている部分をさすってみた。

「アデデデデデ...。」

梨華は入り口のドアの辺りに立ったまま、依然泣き続けていた。俺は梨華の方に近づくと腹の部分に隠してあった人形を取り出して梨華の目の前に差し出した。

「ほい、梨華。取り返してきたぞ。」

そんな俺の言葉を聞いても、梨華はなおも泣き続けていた。俺は頭をポリポリと掻いてこう言った。

「そっか。ゴメンな、ボロボロになっちゃって。せっかく梨華が大事にしていた人形だったのにな。」

俺がそう言うと梨華はフルフルと頭を振って、涙声で答えた。

「ううん、違うの。梨華が悲しいのはお人形さんがボロボロになったからじゃないの。お兄ちゃんがこんなに傷だらけになって、痛そうなのがとっても辛いの。お人形さんが戻ってきても、痛そうなお兄ちゃんのことを見ているのが、梨華はとっても辛いの。大丈夫?お兄ちゃん。ゴメンね、ゴメンね・・・。」

そう言うと梨華は俺の右のほっぺたにキスをした。そうして今度は俺の胸の中で泣いた。

「ゴメンね、お兄ちゃん。梨華もっと強くなるね。辛いことがあってもすぐに泣かないように努力するね。だからお兄ちゃん、梨華強くなるからもう喧嘩なんてしないでね。梨華もう泣かないから...。」

俺は梨華の頭を優しく撫でてやった。人形は恭子さんが手と足の部分を裁縫してくれて元通りに戻った。その人形を見て恭子さんも何となくそのときの喧嘩の理由が分かったようだった。その一件以来梨華は多少のことでは涙を流さなくなった。時には俺でさえも負けてしまうぐらいの人間的な強さを、梨華はいつの間にか培っていった。


― 「へへへ...。」

昔のことを思い出し、俺は自然と笑みをこぼしていた。そんな俺を見て本間は、

「石川先輩、あることって何ですか?」

と尋ねてきた。

「え?!あぁ、俺とドラゴンボールを探す旅に出たおかげで、梨華も立派なカメハメ波を撃てるようになって、強くなったってことだよ。」

「はぁ!?何ですかそれ?」

そんな風にしてたわいも無い会話をしているうちに、俺達2人はそれぞれの家路へと着くことになった。

「それじゃあ石川先輩、失礼します。梨華さんに都合の方聞いといて下さいね。」

「おう、お疲れ。お前も後藤の都合聞くの忘れるなよ。」

「はい、分かりました。」

そう言うと本間は自分の家の方向に向かって走り出した。俺も帰宅するべく、自宅の方に向かって歩き始めていた。


家に帰ると俺はそのまままっすぐ梨華の部屋へと向かった。 時間は夜の7時、キッチンからは恭子さんの作る料理の美味しそうな匂いが漂っていた。

『トントン』

ドアをノックすると中から梨華の声が聞こえてきた。

「開いてるよぉ。どうぞぉ。」

俺はドアを開けると部屋の中へと入っていった。

「うぃーす、入るぞぉ。」

「あぁーお兄ちゃん、ちょうどいい所に来たぁ!」

部屋の中で仰向けになっていた梨華は俺の姿を見るとムックリと立ち上がり、俺の腕をつかんでそのまま元の場所に座り込んだ。

「おいおい何だよいきなり。」

俺はそう梨華に問い掛けた。梨華は状況を理解してもらおうと、説明をし始めた。

「うん今筋トレやってたんだけど、腹筋する時に誰かに足を抑えておいてもらわないとやっぱり出来ないの。そんなわけだからお兄ちゃんお願い、ちょっと足首を抑えててもらえる?」

「あ?別にいいけど...。」

そう言うと俺はカバンを置いて、学生服のまま梨華の両足を揃えてその足首を持った。

「いーち、にーい、さーん...。」

俺が足首を抑えると梨華はすぐに腹筋を始めた。

「梨華、今度の日曜日なんだけどさ...。」

俺が問いかけようとすると梨華は切迫した声で俺の言葉を遮った。

「ごめん、ちょっと待って!あと2回...。」

俺は促されるままに梨華の腹筋が一段楽するのを待つことにした。

「...きゅーーう......じゅーーー!」

梨華は大きく息を吐くとそのまま仰向けに倒れてしまった。

「フーー、ごめんねお兄ちゃん。それで用事って何?」

仰向けのままの状態で梨華が尋ねてきた。俺は改めて梨華に向かってさっきの質問の続きを言った。

「ああ、今度の日曜日なんだけどさ、おまえなんか予定あるか?」

俺の言葉を聞くと、仰向けに倒れていた梨華が勢いよく飛び起きた。

「なになに?お兄ちゃんどこかに連れてってくれるの?」

「ああ、遊園地 ―」

俺がそう言いかけた所で、梨華は飛び上がって喜んだ。

「ええっ!遊園地に連れて行ってくれるの?うれしー!!何年ぶりだろうね、お兄ちゃんと2人で遊園地に遊びに行くなんて。」

「あ、いやそうじゃなくてさ...。」

「ん!?」

梨華は目をクリクリさせて俺の言葉を待った。

「2人でじゃ無くて、4人で遊園地に遊びに行かないかっていう話なんだ。」

「4人?」

「そう4人。俺と梨華、それに本間と後藤。」

「......そっか、そうだよねどうせ遊ぶんだったら人数が多いほうが楽しいもんね。うん、梨華は全然OKだよ。わーい、楽しみー!」

「...そっか。」

「あれー?どうしたの、お兄ちゃん?なんか元気ないねぇ。」

「あ?ああ、いや...。」

その時の俺は、遊園地の中を2人で楽しそうに並んで歩く本間と梨華の姿を想像していた。家族としての妹としての梨華ではなく、誰かに愛される1人の女性としてそこに存在する梨華 ― 。そこにいる梨華は昔から良く知っているはずなのに、何か輪郭のぼやけた、存在性が曖昧な、つかみ所の無い存在となって俺の目の前を揺れ動いていた。家族以外の第三者から愛情を注がれる梨華、その事実を俺は上手く理解出来ないままでいた。

「あー!お兄ちゃん、本当は真希ちゃんと2人きりの方が良かったのになぁ、って思ってるんでしょう?」

梨華はニコリと笑うと俺の顔を指差した。

「あ?!何言ってんだ、んなことねえよ!」

俺は梨華から視線をはずした。

「あー!照れてるぅ!!えーい!コチョコチョコチョ...。」

そう言って梨華は俺のわき腹をくすぐってきた。

「わ!やめっ!!」

「えーい!正直に言えー!コチョコチョコチョ...。」

何となくその場が梨華のペースにはまりつつあったので、俺はイニシアチブを取り戻そうと反撃に打って出た。

「そういうお前の方こそ、本当は本間と2人だけで遊びたいって思ってたんじゃないのか?!」

俺はそう言うとわき腹に添えられた梨華の手を押さえつけて、自分の体勢を梨華の上にして、梨華のわき腹を逆にくすぐり始めた。

「キャッ!!やめてよぉ、おにいちゃんっ!くすぐったいよぉ。」

「本当のこと言ったら止めてやるよ。」

俺はなおも、逃げようとして身をよじらせる梨華を押さえつけて、そのわき腹をくすぐり続けた。

「ちょっ、お兄ちゃんホントにやめて!くすぐったいよぅ。」

その時の俺は今までに経験したことの無いような、奇妙な感情に支配されていた。しかし、その感情が何であるのか、俺にはすぐには理解することが出来なかった。身をよじらせて逃げようとする梨華、俺の手は梨華のわき腹から胸の方へとその位置をずらしていた。

「...ん、お兄ちゃんっ......。」

勢いに乗った俺は、構わずに梨華の胸のあたりを手でさぐり始めていた。俺の中に芽生えていた奇妙な感情は、その行為を止めることを許さなかった。 俺と梨華、2人の息遣いは次第に乱れていった。しかし、梨華の胸を円を描いて1周しようとした時、俺は自分の中に沸き起こっている感情が何であるかをようやく理解することが出来た。と同時に、その感情の正体に俺は愕然とした。― その感情は紛れも無い、『嫉妬』だった。

『梨華と本間に嫉妬?この俺が?』

自分自身の感情に驚いた俺は、梨華の体からスッと自分の身を離し、学生服の襟元を正すと鞄を持って無言で自分の部屋に戻ろうとした。すると背後から、息を切らせながら梨華が訴えてきた。

「もぉ、お兄ちゃんのえっちぃ。」

俺は、自分自身でも良く分かりすぎるほどに不自然な冷静さを装って、梨華に答えた。

「ばか、何言ってんだ...。それじゃあ、本間に日曜日OKだって伝えておくからな。」

「うん。」

「それじゃあな。」

「あ、お兄ちゃん......。」

背後からかけられる梨華の言葉を遮って、俺は梨華の部屋のドアを閉めた。俺の背後でドアの閉まる音が重く響いた。何かが崩れ始めようとしていた。俺達の周囲を取り巻く風景は急激に日常性という名の、当たり前の淡い色合いを失おうとしていた。


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【 8 】 ― 素顔

日曜日午前11時、俺は自分の部屋で外出用の洋服に着替えて鏡の前に立っていた。梨華と、そして後藤も一緒に遊びに行くことを快諾してくれた。約束の時間である午後1時までは、まだ2時間近く余裕があった。鏡の中の自分と対峙しながら、俺の頭の中では様々な思いが駆け巡っていた。本間と梨華に対して、俺はどんな態度をとれば良いのだろうか?後藤に対して俺はどんな態度を取れば良いのだろうか?今まで当たり前のように取ってきた行動の一つ一つに対して、俺は自分では考えられないぐらいに、過剰なまでに神経質になっていた。俺自身の後藤に対する思い、そして梨華に対する思い。自分の本当の気持ちがどこにあるのかさえ、俺自身確証を持てないままでいた。いくら考え込んでも出る見込みの無い答え―。俺は頭をボリボリとかきむしった。

『あれこれ考え込むよりも、自分に正直に行動するのが俺のモットーだろ?』

俺はそう自分自身に言い聞かせた。そう、俺に出来ることは自分に正直に行動すること、結果は自ずと後から着いて来る。

「おにーちゃ〜ん、そろそろ行こうよ〜。」

1階から梨華の呼ぶ声が聞こえた。俺は鏡の前で1つ大きく深呼吸をすると、部屋のドアを開けて返事をした。

「分かった、今行くよ。」

そう言うと俺は梨華のいる階下へと降りて行き、待ち合わせ場所である遊園地へと向かって出発した。

遊園地の入り口には12時30分頃に到着した。空は突き抜けるように青く、吹き抜ける風も心地よいものだった。そこにはすでに本間と後藤の姿があり、2人は談笑の最中だった。

「よう。」

俺は2人に声をかけた。俺の声に気がついた本間は、手を上げて答えた。

「あ、石川先輩、こっちですよ。」

俺と梨華は本間達のいる方に足早に向かっていった。

「どうも、こんにちは。石川先輩、梨華さん。」

本間は律儀に、俺達に向かって頭を下げた。

「あ、どうもこんにちは。」

梨華もそれにつられてか、丁寧にお辞儀をした。後藤は軽く会釈をしてニッコリと微笑んだ。

「2人とも早いじゃないか。約束の時間までまだ30分近くあるぜ。」

俺は時計に目をやり、そう言った。

「いやコイツがね『待たせると悪いから』って言って、早めに家を出たんですよ。コイツ基本的に大雑把な性格のくせして、変に律儀な所があって。」

本間はそう言ってチラリと後藤の方を見た。

「もう、そんなことわざわざ言わなくてもいいじゃない。啓ちゃん。」

そう言って後藤は本間の背中をドンと押した。

「あぁ、悪い悪い。」

後藤は恥ずかしそうにうつむいてしまった。いつも気丈に振舞う後藤だったが、時折見せるかわいらしい仕草に俺は好印象を抱いていた。

「あ、真希ちゃん、そのお洋服かっこいいね。」

梨華がそう後藤に言った。後藤は髪の毛をポニーテールに束ねて、夏らしいライトブルーのノースリーブのTシャツにジーンズ、そしてスニーカーという、活動的で爽やかな服装をしていた。快活な後藤にピッタリと似合う服装だった。

「ありがとう梨華ちゃん。梨華ちゃんもその服かわいいよ。」

一方の梨華はといえば、ピンクのTシャツにチェック柄のスカート、そしてサンダルにツインテールという、後藤とは対照的な乙女チックな格好をしていた。

「ほんとぉ!ありがとう!」

後藤の言葉を聞いた梨華はニコニコ顔になった。

「はいはい、お2人ともかわいいかわいい。」

俺はそう言って手をパンパンと叩いた。

「あー、何よお兄ちゃん!そのどうでもいいって態度は!これ重要なんだからね!」

打って変わって梨華は、腕を組んで頬を膨らませた。

「まぁまぁ、梨華ちゃん、怒らない怒らない。」

後藤は梨華の肩に手を置いて、梨華をなだめた。

「梨華さん、そのかわいらしい洋服、よく似合ってますよ。」

本間が慌ててフォローするかのように梨華にそう言った。

「ほんとですか!?ありがとうございます、本間さん。優しいですねー。デリカシーの無い誰かさんとは大違い!」

梨華はそう言って俺の方をキッと睨んだ。俺はあさっての方向を向いて口笛を吹き、関心が無い様子をわざとらしく示して見せた。

「もうっ!」

背後で梨華の怒る声が聞こえた。後藤はその様子を見てクスクスと楽しそうに笑った。

「まぁまぁ、ここで立ち話しているのもなんですし、そろそろ中に入りましょうよ。」

そう言うと本間は先陣を切って遊園地の中へと入っていった。3人もその後に続いて遊園地の中へと入っていった。


日曜日ということもあって遊園地の中は家族連れやカップル等で結構混みあっていた。人ごみをすり抜けて、俺達は入り口付にある案内板の前に立った。

「遊園地に来て、まず最初に乗るって言ったら、やっぱジェットコースターかな。」

案内板を見上げながら俺はそう言った。

「梨華さん、ジェットコースターとか絶叫マシン系のものは平気ですか?」

梨華の方を見て本間がそう問い掛けた。

「うん、大丈夫ですよ。」

笑顔で梨華が答えた。

「真希も大丈夫だよな?」

後藤に対しても本間は同じように聞いた。

「平気だよ。」

後藤はいつも通りの様子でそう答えた。それを聞いた俺は、こう提案した。

「よし、じゃあこれから行ってみるか。『世界最速ジェットコースター ”FUJIYAMA−GEISYA”』!」

「うん!」

梨華が元気に答えると、俺達は揃って搭乗ゲートの方へと向かっていった。乗車の列の最後尾に着いてから15分程すると、いよいよ俺達の乗車の番になった。幸か不幸か俺達は最前列と、前から2番目の席に座ることになった。

「さて、誰が1番前に乗るか。」

俺は皆の意見を聞いた。すると間髪いれず後藤が、

「アタシ後ろの席でいいよ。梨華ちゃん、前の席に乗りなよ!」

と言った。後藤の突然の申し出に対して梨華は、

「え?!私、1番前?....ちょっと怖そうだな。」

と一瞬ためらったが、

「うん。じゃあ私、前に乗るね。」

と言って最前列右の座席に梨華は腰掛けた。それを見た本間は、

「ジェットコースターと言ったら、やっぱり1番前ですよね。石川先輩、僕前の席でいいですかね?」

と俺に問い掛けてきた。

「ああ、いいよ。」

そう言うが早いか、本間は滑り込むように梨華の隣に座った。本間は梨華の隣に座りたくて無理をしてそう言っている様子は無く、本気で先頭の方に座って楽しみたいという感じだった。先頭の2人が落ち着いたので、後藤と俺もその後ろ側に座ることにした。

「じゃ後藤、先に乗って。」

俺はそう後藤に言った。

「う、うん。じゃあ先に乗るね。」

そう言うと後藤はヒョイと奥側の席に乗り込んだ。後藤が乗り込んだのを確認して、俺もその隣に腰をおろした。前の席では梨華と本間が2人ではしゃぎあっていた。そうこうする内にいよいよジェットコースターは出発の体勢に入った。

“カタコンカタコンカタコン....”

単調な駆動音と共にジェットコースターは上昇を始めた。

「あー、ドキドキしますね、本間さん。」

「そうですね。でも僕の場合、どっちかっていったらワクワク感の方が強いかな?」

相変わらず前方からは2人のはしゃぐ声が聞こえていた。一方後部に座っている俺と後藤はと言えば、互いに一言も発しないままの状態だった。最初は辺りの景色等を物珍しく見ていたせいかそれほど気にならなかったのだが、段々と一言も言葉を発しない後藤の様子が俺は気になり始めていた。登りの中腹付近に差し掛かったところで、俺は隣に座っている後藤の様子をそれとなく窺ってみた。 すると後藤は両手をギュッと握り締め、中空の一点を瞬きもせずに見つめたまま、緊張した様子で深く座席に身を委ねていた。その様子を見て、心配になった俺は後藤に声をかけた。

「おい後藤、大丈夫か?気分でも悪いのか?」

後藤は無言のままフルフルと頭を振った。その様子を見て、ある考えが俺の頭の中に思い浮かんだ。

「後藤...ひょっとしてお前.....。」

俺が自分の考えを口にしようとしたその時だった。

”ガタン”という音とともにジェットコースターは急降下を始めた。前の席からは梨華と本間が絶叫する声が聞こえてきた。

「きゃーーーーー!!」

一方の後藤はと言えば、固く瞳を閉じて押し黙って、ジッとその衝撃に耐えていた。前方からはなおも梨華の絶叫が聞こえてきた。

「☆♪!きゃーー!最っっ高!!!」

最前列の席を怖がっていたかのような梨華だったが、実際に乗ってみるとそのスリルを十二分に満喫しているようだった。そして急降下が終わり比較的穏やかなアップダウンに差し掛かっても、後藤の瞳は終始閉じられたままだった。そうしてジェットコースターはようやく出発地点まで戻り、徐々にスピードを落として停止した。前方の席からは本間と梨華が元気一杯に座席から飛び降りた。

「最高でしたね、梨華さん。」

本間が興奮気味に梨華に話しかけた。

「ええ、面白かったです♪さーて、次は何に乗りましょうか。」

2人がそんな風に話をしている中俺は、どうやら1人では立てそうもない後藤の手を握ると後藤の耳元でこう囁いた。

「後藤立ち上がれるか?」

後藤はコックリ頷いて、俺の手を握ったままゆっくりと立ち上がり、ようやく降車ホームへと降り立った。その後俺達は園内の移動を開始した。本間と梨華の2人はといえば、今さっき乗ったジェットコースターの話題で持ちきりだった。

「梨華さんああいうの苦手かと思ってたら、結構平気なんですね。」

「うん。実はスリルのあるやつ大好きだったりするんですよぉ。」

「へぇ、そうなんですか。僕も小さい頃からああいうの大好きなんですよ。じゃあ次はどの絶叫マシンに乗りましょうか?」

2人がそんな会話をしているのをよそに、後藤は相変わらず気分が優れないのか、俺の手をギュッと握り締めたまま無言で歩いていた。俺も照れながらも後藤の手を強く握り締めたまま、離さなかった。

「石川先輩、次はどの絶叫マシンに乗りましょうか?」

そう言って本間が俺達がいる後方を振り返った。

「え?絶叫マシン...か?」

傍らの後藤を見て、俺は本間達のペースで絶叫マシンに乗っていたら、彼女の身が持たないだろうと危惧した。

「いや、でも後藤が ― 。」

本間に対してもっと違った種類の乗り物に乗ることを提案しようと思っていた俺だったのだが、その瞬間に隣にいる後藤に発言することを引き止められるかのように強く右手を引っ張られたので、俺はそう言いかけたところで口を噤んだ。隣では後藤が

「大丈夫だから。」

と囁いて俺の方に軽く微笑みかけた。口ではそう言っているものの、俺には後藤が全然大丈夫そうには見えなかったので、本間達に対してどう答えたものかと思案した。

『何故後藤は、自分は絶叫マシンが苦手だって言いたくないんだ?』

俺が思い当たることの無い何らかの理由がそこにはあるはずだった。

「?真希がどうしたんですか?石川先輩?」

途中で言うことをやめた俺を見て、本間は不思議そうな顔をした。

『何かいい考えは無いか?』

暫く思案すると、俺はあることを思いつき、本間に対してこう答えた。

「なぁ本間、これからは2対2で行動しないか?」

そう言って俺は後藤と握られている手を少し大袈裟に振って、強調してみせた。その言葉を聞いた後藤は一瞬驚いた表情をしたが、なぜ俺が急にそんなことを言い出したのかをすぐに理解したらしく、後藤も俺に合わせて本間に向かってニコッと微笑んだ。それを見た本間は俺達の言いたいことを察知したのか、ひとつ頷くとこう返してきた。

「あ、そうですね。じゃあここからは2人一組で行動しましょうか。ね、梨華さん。」

本間にそう言われた梨華は、何故そんなことを突然俺が言い出したのかを理解できていない様子で、

「え?!え?!」

と言って俺と本間を交互に見ているだけだった。

「それじゃあ、また後で。」

そう言うと本間は半ば強引に梨華の手を引いて、ループコースターの方へと向かって歩き始めた。段々と離れていく2人の姿を見送りながら、俺は後藤の方に向き直りこう言った。

「さてと...。少し休むか。」

そう言うと俺達は、本間達が向かった方向とは反対側の方向に歩き始めていた。


「どうだ?だいぶ落ち着いたか?」

「うん、もう大丈夫です。ありがとう。」

俺達2人はオープンカフェにいた。 後藤は落ち着きを取り戻して、やっといつも通りの彼女らしさを取り戻していた。白いテーブル上に2つ並んだアイスコーヒーのグラスが、夏の暑さの中に涼しげな輝きを発していた。

「ああいう乗り物、苦手?」

グラスのストローをクルクルと回しながら、俺は後藤に尋ねた。

「うん。小さい頃からダメだったんです。安全だって分かってはいるんですけど、不安定な感じでそのまま空中に放り出されちゃうんじゃないかって感じがして。もう背中がゾクゾクゾクってしちゃって、ダメなんですよね。」

後藤は肩をすぼめてそう答えた。

「なんだそうなのか。そんなに苦手だったら無理して乗ることもなかったんじゃないか?どうして苦手だって言わなかったの?」

俺は素直にそう自分の考えを言った。後藤はアイスコーヒーのグラスを、爪で2度3度コツコツとはじきながらこう言った。

「だって折角皆で遊園地に遊びに来ているのに、雰囲気壊したくなかったんですよ。私1人が乗りたくないってことになったらみんなきっと遠慮して、乗るのよそうかってことになるでしょう?折角楽しみにしていたのに...。」

後藤のその言葉を聞いて、俺は頷いた。確かにその言葉を聞いていれば、俺はジェットコースターではなく別の乗り物に乗ることを皆に勧めただろう。なおも後藤は続けた。

「それに啓ちゃんとか梨華ちゃんに、自分のウィークポイントっていうのをあまり見せたくなかったんですよね。啓ちゃんとか梨華ちゃんがイメージしている私の姿って、きっと何があっても物怖じしなくて、いつだってドッシリと構えているっていう感じだと思うんですよ。そういうのがあって色んな悩み事とかを何の遠慮も無く私に言ってくれたり、頼りにしてくれている部分っていうのは少なからずあると思うんですよ。」

「そうだな。梨華もよく、後藤はすごく頼もしい、とか言ってることあるし。後藤に対してすごく頼りがいを持っているっていう部分はあるのかもしれないな。」

後藤は今度は腕組みをして、こう続けた。

「そう。啓ちゃんも小さい頃から女の私に頼る部分が多くて、よく泣かされて帰ってきた啓ちゃんのために、男の子と喧嘩するなんてこともしょっちゅうだったんですよ。」

「頼りにされていることが分かってしまっているから、自分の弱い部分をひけらかすことが出来ない。いつも頑張りすぎてしまう。 ひょっとして後藤にはそんな側面があるのかな?」

そう言って俺は後藤の目をジッと見つめた。俺と目が合った後藤は慌てた様子で視線を外し、目の前の通りの風景をどこを眺めるでもなく見やった。その通りには家族連れ3人がちょうど通りかかろうとしているところだった。父と母に両手を繋がれて、赤い風船を持ってチョコチョコと歩く女の子の姿がそこにはあった。女の子も両親もかけがいの無い時間をいとおしむように、満面の笑みで日曜日の遊園地を闊歩していた。目の前のそんな風景を見た後藤は、その家族につられる様に笑顔を浮かべた。 そしてその直後に、ほんの一瞬ではあるが悲しげなやりきれない表情を浮かべた。

「?」

後藤の表情の変化を目の当たりにしてした俺は、何故後藤がそんな悲しげな顔をするのかが分からなかった。 そんな俺の様子に気がついたのか、後藤は静かに口を開くとこう言った。

「アハハハ。ごめんなさい、急に黙っちゃって。なんか羨ましいなって思っちゃって。」

「羨ましい?」

後藤は俺の疑問に対して、こう説明を続けた。

「...私ね、小さい頃にお父さんを事故で亡くしているんです。本当に小さい頃だったから、その当時の様子っていうのもよく覚えてはいないんですけれども...。」

俺は黙って後藤の言葉の続きを待った。

「お母さんは頑張って、女手ひとつで私達姉妹3人を育ててくれたんです。うちの母小料理屋を営んでいるんですけどね、やっぱり私達には言えない様な苦労も色々としてきたみたいで...。」

そこまで言ったところで昔のことを思い出したのか、後藤の目に光るものがあることを俺は確認した。 小さい頃に母親を亡くしている俺は、後藤の涙に共感して余りある部分が少なからずあった。

「そんな頑張っている母親の姿を見て、『ああ、私ももっともっと強くなって頑張らなくちゃいけないな』、『頑張ってお母さんに楽をさせてあげられるようにならなきゃいけないな』って子供ながらに思っていた所があったんです。 そういう部分から、弱さをみせずに頑張らなきゃいけないっていう気持ちが強く根付いてきたのかなぁ...。」

後藤の目には溢れそうなぐらい涙が溜まっていたが、その輝きは後藤の目から決して零れ落ちることは無かった。目の前で健気な態度を見せる後藤に、俺は自分が思ったことを素直にそのまま伝えた。

「そうか...でもな後藤、あんまり頑張り過ぎなくてもいいんじゃないか?辛い時には辛い、悲しい時には悲しい、その時々で自分の感情をある程度素直に出していった方がいいと俺は思うぞ。感情を自分の内に溜め込みすぎると、それが重荷になって今日みたいに辛い思いをすることになるし、それにまだこうして他の人間に話せるうちはいいけど、他人に話すことさえできなくなると、きっともっと大変なことになるかもしれないぞ。俺でよければいつだって話相手になるぞ。気の利いたことは言えないかもしれないけど、後藤の話を聞いて自分の思いの丈を伝えることぐらいはできるからな。」

俺のそんな言葉を聞いた後藤は、ニッコリと微笑むとこう答えた。

「そうですよね。私もそう思います。じゃあこれからは先輩の前では、自分の考えや感想を素直に言っちゃいますね!」

そこまで言った後、後藤は両手を組んでその上に自分の顎を乗せて、視線を横の方に移しながらまるで独り言のようにこう呟いた。

「うん...そうなんですよね。今までこんな気持ちになったことってあんまり無いんだけど、何ていうか先輩には何でも素直に自分の気持ちを話せるっていうか、安心して向き合うことができるって言うか...さっきのジェットコースターだって隣に先輩がいたから、ひょっとしたら苦手なものも克服できるかもっていう気持ちがあったし。これって...。」

そこまで一辺に言うと、後藤は悪戯っぽく微笑んで俺を見上げた。

「?」

俺が不思議そうな顔をしていると、後藤はサッと立ち上がり、俺の手をとるとにこやかにこう言った。

「ねぇ先輩!私メリーゴーランドに乗りたい!!行こっ!」

「あ!?ああ。」

後藤と俺は駆け出していた。 俺は後藤の手の温もりを感じながら、もうこの子に寂しい思いや辛い思いを2度とさせたくは無いと思った。ほどけないように、途切れないように、俺は後藤の手を強く強く握り締めた。


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【 9 】 ― 決意

「あ、お兄ちゃん達だ!お〜〜い、おにいちゃ〜ん。まきちゃ〜〜ん!!」

遠くから梨華が俺達を呼ぶ声が聞こえてきた。辺りが夜の帳に包まれようとする頃、俺と後藤は遊園地のメインストリートにあたる大きな通りを並んで歩いていた。 声のする方を振り返ってみると、俺達の後方数十メートル程離れた所を、梨華と本間の2人が歩いている姿が見えた。俺達はその場に立ち止まって、2人がやって来るのを待った。駆け足で近づいてくる2人、途中前にいた梨華は本間の手をとって、2人並んで俺達の元へとやって来た。

「お兄ちゃん達どうだった?どこに行った??何に乗った??楽しかった??」

畳み掛けるように梨華が質問を浴びせかけてきた。明らかに梨華のテンションは上がったままだった。

「梨華 ― 。」

「ん?」

俺は梨華に落ち着くように促した。

「はい、深呼吸。スッーー、ハァーー。」

「ハァーー。」

梨華は俺に促されるままに、その場で一つ大きく深呼吸をした。

「そっちはどうだったんだよ。何が一番面白かった?」

落ち着きを取り戻した梨華に、俺はそう聞き返した。

「うーん、そうだなぁ、、、やっぱりトルネードコースターが一番迫力があって面白かったかな?それにスピンツイスターでしょ、フォーリングクレイドルでしょ、あと...。」

梨華の口から出てくるのは予想したとおり、絶叫系の乗り物ばかりだった。やはりあの時、梨華達と行動を別にしておいて正解だったと俺は思った。後藤の方をチラリと見ると、ホッと胸を撫で下ろしているさまが見てとれた。

「お兄ちゃん達はどこが面白かった?」

ひと通り話し終えた梨華は、今度は俺に対して質問をしてきた。

「そうだなぁ...。」

俺は今日後藤と2人で巡ったアトラクションを回想してみた。

「お化け屋敷の”ホラービレッジ”が面白かったかな?視覚よりも聴覚に比重を置いている点にこだわりが感じられて、なかなか良かったぞ。何よりも素で結構怖かったしな。」

「あー、怖かったよねぇ!梨華達も行ったよぉ、お化け屋敷!」

そう言って梨華は肩をすぼめてみせた。

「あれ?啓ちゃんもお化け屋敷に行ったの?あんなにお化けとか苦手な啓ちゃんが?」

本間に対して後藤がそんな風に尋ねた。後藤の問いに対して本間は、ばつが悪そうに答えた。

「今日は...天気も良かったし、何となくお化けも怖くなさそうな感じがしないでもなかったし...。だから、そのまあ、何だ...。」

怖がりだということを知られるのが恥ずかしいと思ったのか、本間はそんな風に何かを誤魔化すような感じで答えた。

「なぁ、それよりもそろそろ日も暮れてきたし、最後に皆で飯でも食べて今日のところはお開きにするか。な、本間?」

困った様子の本間を見て、俺はそんな風に助け舟を出した。

「あ、そうですね。そうしましょうか。」

本間は助かったとばかりに調子を合わせてそんな風に答えたのだが、それを聞いた梨華がこんな風に言い出した。

「あ、私最後に観覧車に乗りたい。ね、真希ちゃん、観覧車にも乗りたいよねぇ?」

そう言って梨華は後藤の顔を覗きこんだ。

「あ、そうだね。観覧車、乗りたいね。暗くなってきたし、きっと綺麗だよねー。」

そう言って後藤は梨華の意見に素直に賛同した。観覧車にはしゃぐ2人のやり取りを見ていた俺と本間は、特に断る理由も無かったので、梨華達の言うとおり観覧車に乗ることを承諾した。

「ねぇねぇ、観覧車って2人乗りだよね?誰と誰が一緒に乗ろうか?」

はしゃぐ後藤がそんな風に尋ねてきた。

「後藤と俺、梨華と本間でいいんじゃないか?」

今日1日行動を共にした者同士の方が何となく落ち着くし納まりも良いだろうと思い、俺はそんな風に答えた。一瞬『それでいい』という空気にその場がなりかけたのだが、少しの間の後、梨華がこんな風に別の提案をしてきた。

「いいこと思いついた!このコインを2回放り投げてさ、1回目が表で2回目が裏だったら私と真希ちゃんで、1回目が裏で2回目が表だったら私と本間さんで、2回とも表だったら私とお兄ちゃんで乗る、で2回とも裏だったらもう1回抽選のやり直し、ってことにしない?」

「なんだよ、裏・表の順番だったら野郎同士で観覧車に乗るのかよ!」

梨華の言葉を聞いて、俺はそんな風に不満を漏らした。だがそんな梨華の意見に対し後藤は、

「うん、それ面白いね。私、それでいいよ。」

と賛成し、本間も、

「結構ドキドキしますね。俺もそれでいいですよ。」

と梨華の意見に賛成した。

「ねぇ、お兄ちゃんもいいでしょ?ほらぁ、お兄ちゃんにコイン投げる役やらせてあげるから。」

「たく、しょうがねぇなー。」

俺は諦めて梨華からコインを受け取った。それは遊園地内にあるゲームセンターのコインゲームコーナーで利用する銀色のコインだった。

「こっちが表ね。」

そう言って梨華はジェットコースターの絵が描いてある方を指差してみせた。

「で、こっちが裏。」

梨華はコインをひっくり返して、今度は観覧車の絵が描いてある方を指差してみせた。

「よっしゃ、じゃあいくぞ。」

俺は覚悟を決めて右手の親指でコインを弾いた。コインはクルクルと回転し、俺の胸の辺りの高さで手の甲と手の平の間に挟まった。 皆が一斉に俺の左手の甲を覗き込む。俺が静かに右の手の平を横にずらしてみると、コインの表面にはジェットコースターの絵が描かれていた。

「......”表”、ですね。」

本間がゆっくりとそう口にした。梨華と一緒に乗る可能性の無くなった本間の声は、心なしか沈み気味だった。あるいは本間の声が沈み気味だったのは、野郎同士で観覧車に乗る可能性にまた一歩近づいたためかもしれなかった。

「じゃ、2回目いくぞ。」

皆の視線が、コインを弾く俺の右手に注目していた。単なるお遊びに過ぎないにもかかわらず、辺りは変に緊張した妙な空気に支配されていた。 俺は痛いぐらいの視線の中、緊張した面持ちで、空中に向かって再びコインを弾いた ― 。


「何で俺とお前が一緒の観覧車に乗らなきゃいけないんだよ。」

俺はそんな風に不平を口にした。窓の外は夕暮れ時の淡い橙色から漆黒の暗闇へと、いつの間にかその様相を変貌させていた。

「......。」

まるで俺の言葉が聞こえていないかのように、外の風景に見入っている様子を見て、俺は1つ大きく咳払いをした。

「んん!」

すると、ようやくこちらに視線を向けて口を開く。

「なによう、お兄ちゃん、梨華と一緒じゃそんなにご不満!?」

梨華はそう言って俺の顔をジッと睨んだ。

「ひょっとして本間さんと2人っきりの方が良かったのかしらぁ☆」

皮肉って梨華がそんな風に嘯いてみせる。

「...すみませんでした。はい。」

俺はそう言って隅の方に小さくなってみせた。

「エヘヘヘ...。」

梨華は穏やかな表情で微笑んだ。

「今日はホント楽しかったなぁ。お兄ちゃん達が一緒じゃなかったのがちょっと残念だったけど。」

静かな落ち着いた口調で梨華はそう言った。

「お前ってジェットコースターとか絶叫系の乗り物って好きだったんだな。そんな風に見えなかったから、今日は正直ちょっと驚いたよ。」

「エヘヘヘヘぇ、実はああいうの大好きなんだよ。」

「......ふーん、そうだったんだ。」

小さい頃から生活を共にしてきたこともあり、俺は梨華の趣味や好みに関して自分なりに結構把握しているつもりでいた。俺の知らない一面を垣間見せる梨華は、俺に新鮮な感覚を覚えさせると同時に、言い知れぬ不安感のようなものが腹の底からこみ上げてくる様な感覚を俺は覚えていた。

「お兄ちゃん、どうしたの?ボーっとしちゃって?」

黙り込んだ俺を心配したのか、梨華はそんな風に尋ねてきた。

「ん?ああ、イヤ、梨華は何でジェットコースターが好きなのかな、と思ってさ。」

胸の内の真意を悟られまいと、俺は逆に梨華にそんな風に尋ねてみせた。

「ん〜、やっぱりスピード感があってスリルがあって、ドキドキドキドキして、悩みごととか全部忘れてスカッと出来るところが好きなのかなぁ。」

梨華の言葉を聞いて、俺は冗談半分でこんな風に言った。

「悩み?お前に悩みなんてあるのかよ?超お気楽天然娘が。」

俺はいつものテンションで梨華が反発してくるものだろうと予想していた。ところが俺の予想に反して、梨華は小さく微笑みを浮かべながら、神妙な口調でこんな風に続けた。

「......私にだって悩みぐらい、あるよ...。」

夏の夜風がゴンドラの窓を小さくカタカタと鳴らした。いつものおちゃらけた表情の梨華はそこにはいなかった。窓の外の風景を眺めながら、梨華は静かにこう続けた。

「本間さんて、本当にいい人。今日一日一緒にいて、ホントそう思った。」

「......。」

俺は何も言わずに梨華の言葉の続きを待った。

「ねぇお兄ちゃん、お兄ちゃんから見て、本間さんてどんな人?」

外の風景から正面に座っている俺の方向に視線を移して、梨華がそんな風に尋ねてきた。俺は自身の中にある本間に対するイメージを、脚色することなく素直に吐露した。

「そうだなあ..本間はたまに早合点しておっちょこちょいな部分もあるけど、何事に取り組むにしても誠実で、ちゃんと周りを思いやることが出来て。いい奴だと思うぞ。正直、ちょっと悔しいぐらいにな。」

「ふーん...。」

梨華は頭の中で、俺の言葉の意味を反芻するかのように、色々と思いを巡らせているようだった。

「じゃあじゃあ、お兄ちゃんから見て、私ってどんな女の子?」

「どんな女の子って...。どういう意味だよ、それ?」

梨華が唐突にそんなことを聞いてきたので、俺は驚いてそんな風に梨華に聞き返した。

「ん〜、どういう意味って...そのままの意味だよ。お兄ちゃんが梨華のことをどんな風に思ってるかってこと。」

梨華は右手の人差し指でこめかみの辺りを軽く押さえて、考えるような素振りを交えながらそんな風に言った。

「う〜ん...。」

俺は暫く思案をめぐらせた。

「そうだなあ。そそっかしくて、せわしなくて、頑固で、何かあってもあっけらかんとしていて、それに...。」

俺がそこまで言ったところで、梨華が不満顔で口を挟んできた。

「ちょっとお兄ちゃん。悪いところばっかりじゃなくて、少しは褒めてくれてもいいんじゃない?」

「ああ、そうか悪い悪い。」

俺はそう言ってポリポリと頭を掻いた。

「えっと、飯を食べるのが遅い。」

「ブー。」

「じゃあ、何かと世話が焼ける。」

「ブー。」

「あっ、声がヘン。」

「ブー。」

俺が次々と発する答えに対して、梨華は不正解とでも言わんばかりにブザー音を連呼してみせた。

「もういいよ。どーせ梨華には、褒められるようなトコなんか無いんだ。お兄ちゃんから見た梨華は、どうしようもなくダメな子なんだ。」

そう言って梨華は、いじけた様子でプイッと横を向いてしまった。俺は少し自分がふざけすぎたと反省し、梨華に向かって改めて自分の素直な思いを告げた。

「ごめんごめん。嘘だよ梨華。お前は何に対しても健気で一生懸命で、誰に対しても優しい心遣いが出来て、そして何より周りの人間を癒すような不思議なオーラを持っているよ。言葉にすると月並みだけど、お前の周りにいる人間はちゃんとそのことを肌で感じることが出来ているから、心配しなくても大丈夫だよ。全部ひっくるめて、お前はいい子だよ。俺が保証する。」

そう言って俺はニッコリと梨華に微笑みかけた。梨華は驚いた表情で俺の方を向いてこう言った。

「わぁ、お兄ちゃんが褒めてくれたぁ。ありがとう...。でも面と向かってそんな風に褒められると、何だか照れちゃうな...。」

梨華は俯いて指をモジモジとさせた。俺も自分の言った言葉に何だか照れてしまい、わざとらしく口笛を吹いて梨華に悟られまいとそのことを誤魔化した。暫くの間沈黙が続いた。夜の闇は、あくまでも優しく俺達の周りを包み込んでいた。丁度俺達の乗ったゴンドラが観覧車の頂上付近に差し掛かろうとした時、意を決したように梨華がその口を開いた。

「ねぇ、お兄ちゃん。」

「ん?」

「もしも、もしもなんだけど、本間さんと梨華が恋人同士になって付き合うってことになったら、お兄ちゃんはどう思う?」

突然の梨華の言葉に俺は驚き、そしてひどく狼狽した。いつかは梨華と本間がそんな関係になる日が来るであろうことは、何となく覚悟はしていた。しかし梨華の口から直接、しかも今、そのことを耳にしようとは俺は夢にも思ってもみなかった。梨華は仮の話をしているのに過ぎないのだが、少なからずの動揺と焦りにも似た感情を俺は抱いていた。正直に言ってしまえば梨華に対して俺は、一般的な兄妹間の愛情を超えた部分での特別な思いというものを自分の内に秘めてしまっていると言えた。それは先日、梨華の部屋を訪れた時にハッキリと自覚してしまった感情であるし、遡ってみれば梨華が恭子さんと共に俺達の家で暮らすようになって以来、ずっとそんな感情を内に秘めたままに俺は生活を送ってきていたのかもしれなかった。梨華が傍にいるということがあまりにも当たり前になりすぎて、そんな感情を特に意識することも無いままに、俺はこれまで過ごしてきた。しかし、後藤、そして本間の出現によって俺はその禁断の感情と対峙することを余儀なくされた。俺は梨華に対して『愛』と呼ぶのに近い感情を抱いてしまっていた。

しかし今目の前にいる梨華は、本間のことを好きになろうとしている。梨華と本間の間合い・感情のスタンスが緊密になりつつあるということは、最近の2人の言動を見ていれば容易に想像が出来る。俺は、梨華が他の誰かのものになってしまうということを快くは思わなかったし、梨華にはずっと俺の知っているままの梨華でいてほしかった。しかし俺1人のワガママで梨華や本間を傷つけたり、無用な混乱を招いたりすることもまた俺は望んではいなかった。そして何よりも俺達が兄妹であるという事実が、俺の感情の前に大きな壁となって立ちはだかっていた。血のつながりは無くとも、俺と梨華は兄妹だった。その時の俺は、それまで築き上げてきた一つ一つのものを覆すような勇気を持ち合わせてはいなかった。

『........!。』

俺が思案に暮れていると、俺の脳裏に一瞬、後藤の笑顔が過ぎった。それは唐突で、ともすれば瞬間で忘れ去ってしまうような儚いイメージだった。しかし、瞬間の後藤の笑顔は、その時の俺の脳裏に焼きついて離れようとはしなかった。俺は無邪気にはしゃぐ後藤の笑顔、そして今日オープンカフェを出る時に握り締めた後藤の手の温もりをその時思い出していた。俺は後藤に対して、まだ『愛』という明確な恋愛感情こそ芽生えてはいないものの、胸の内に密かな好意を抱いているということは間違いが無かった。後藤といるだけで俺は自然と笑顔になることが出来たし、気丈な振る舞いの陰に潜む女性的な脆さ、危うさを俺は守ってあげたいと心から思った。

それまでは特に意識したことが無かったのだが、俺と後藤が親密になろうとしている瞬間に、俺は梨華の存在に後ろ髪を引かれて、後藤にのめり込もうとする自分自身の感情に無意識のうちにブレーキを掛けていたのではないか、という風に考えた。しかし俺にとって梨華は『妹』。その現実には抗えないし、それ以上の深い関係を望んではいけないということもまた事実だった。俺は後藤の顔をもう一度思い浮かべてみた。

『後藤...。』

俺は胸が熱くなり、鼓動が早まっていくのを感じていた。梨華との関係性を冷静に判断したうえでの、俺の胸の内にある後藤への熱い思い。その思いが、俺の一つの決意を後押ししてくれた。俺はひとつゆっくりと息を吐くと、言葉を慎重に選んで話し始めた。

「梨華...。」

「ん......。」

掠れる様な声で梨華は答え、俺の言葉の続きを待った。

「もし、お前と本間が付き合うことになったとしたら、俺は嬉しく思うよ。」

「......。」

梨華は黙って俺の言葉の続きを待った。

「さっきも言ったけど本間は本当にいい奴だと思うし、お前にその気があるんなら俺は出来るだけ応援しようと思うよ。」

梨華は真摯な態度で俺の一言一言を噛み締めるように聞いていた。

「兄貴が妹の幸せを願うなんて当然のことだろ?梨華、お前は俺のたった1人の妹だ。お前の幸せを俺はいつだって願っているんだよ。」

俺はそう言い終えると、小さく一つ息を吐いた。いつかは言わなければならなかった切ない言葉。兄妹という関係性に束縛されて消えた、一つの小さな『思い』という名のともし火。梨華は俺の言葉を聞いて、両方の拳を固く握り締めて俯いていた。そんな体勢のまま暫く時間が過ぎたが、梨華は何かを整理出来たかのように顔を上げると、こんな風に呟いた。

「...ごめんなさい。急に変なこと聞いちゃって...。」

そう言うと梨華はキュッと口元を噤んだ。俺は席を立って正面にいる梨華の隣に腰を下ろすと、こう語りかけた。

「梨華、お前はいつになったってどこに行ったって、ずっと俺のかわいい妹だよ。」

俺はそう言って隣にいる梨華の肩を抱いた。梨華は俯いたまま静かに肩を震わせていた。俺は何も言わずそっと梨華の肩を抱いていた。そのままの体勢で梨華は声を出さないで暫く泣いた。小さく震える梨華の肩を抱いて俺は中空を見上げていた。上を見上げていないと何だか俺の目まで霞んでしまいそうで、そんな風にせずにはいられなかった。そんな風にしてまた暫くの時が流れた。梨華は少し落ち着きを取り戻し、感傷的な空気を振り払うかのように、明るい口調でこんな風に言った。

「わぁ、お兄ちゃん見て。すっごいキレイだよ。宝石箱をひっくり返したみたい...。」

そう言って梨華は窓の外を指差した。梨華の言葉につられて俺は窓の外の景色を眺めた。眼下には色とりどりの光のオブジェが、夜の帳の中で美しく瞬いていた。梨華の言葉には先ほどまでの不安だとか迷いを感じさせるような雰囲気は無く、何かを決意したかのように淀みなく力強い雰囲気が伝わってきた。

「...そうだよね。私達本当に仲の良い兄妹だもんね。」

「......ああ。」

「そう...。例えそれが ― 。」

「ん?」

「ううん、何でもない!」

梨華が何かを言いかけて、慌ててそれを口にすることを止めたので、俺は梨華が何を言おうとしたのか多少気になった。だがその時俺は、余計な事は考えずに、眼下に広がる美しい光景を妹の梨華と2人で心行くまで眺めていたいと思っていたので、そのことを深く追求することは無かった。

「お兄ちゃん、キレイだねぇ。キレイだねぇ ― 。」

梨華の声が夜の遊園地の闇の中に静かに染み渡った。俺はその時、これで心残りなく後藤に対して自分の気持ちを打ち明けることが出来る、と自分の気持ちを確認した。そして恐らく梨華も、本間に対して自分の素直な気持ちを打ち明けることを決心することが出来たのだろうと俺は思った。俺達2人はその後暫く、夢見るようなまどろみの世界の中にそれぞれの身を委ねていた。


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【 10 】 ― 告白

「...でねえ、私言ってやったんですよ。『それはどう考えてもあなたの方が悪いんでしょう』って。なのに弟ったらね...。」

「...ハハハハ。まあしょうがないよ。弟さんも難しい年頃なんだろ。男にはそんな風に何にでも反抗的になる年頃っていうのがあるもんだよ。だから後藤、そんなに気にすることもないんじゃないか?」

「んーー、でもねえ...。」

屋上には俺と後藤の2人以外、人の姿はなかった。最近は昼休みになると、俺と後藤は2人でよく一緒に食事をしていた。何日か前に昼休みに偶然出会って以来、どちらからともなくこうして屋上にやって来ては一緒の時間を過ごすようになっていた。俺達はいつも他愛の無い話ばかりしていたが、そんな他愛の無い話の中にも俺の知らなかった後藤の色々な側面が見えてきて、俺にはとても新鮮に感じられた。俺達は直接日の当たらない、貯水タンクの屋根の下の階段に腰掛けて食事をしていた。時折吹き抜ける風が俺達の頬を優しく撫でていった。

「ではでは先輩、本日のメインメニュー『牛肉のアスパラ巻き』でございます。お一ついかが?」

そう言うと後藤は、ピンク色のタッパーの蓋を開けてこちらに差し出した。

「お、美味そう。じゃあ遠慮なく...。」

俺は後藤の差し出したタッパーに箸をつけ、おかずをおもむろに口に運んだ。

「どう!?先輩?」

後藤が不安そうな表情でこちらを窺う。

「ウッ!」

「......。」

「...ウッ・ま〜〜い!!」

「やっだー、先輩ったら古典的〜。」

そう言って後藤は俺の肩を軽く叩いた。

「アハハハ。でもマジで美味いよこれ。」

「ホント〜!これはね、焼き方と塩コショウの加減が結構難しいの。それにね―。」

自称料理人を語る後藤は、本当に料理が上手かった。忙しい母親に代わって家族の弁当を作るのは彼女が担当しているということだった。最近は俺にもこんな風に一品料理をこしらえてくれることが多かった。

「ほんと後藤って料理が上手だよなあ。将来はきっといい嫁さんになるんだろうなぁ..」

後藤の料理の腕に感心した俺は、何気なくそんな風に口にした。

「...エッ...。」

俺の言葉を聞くなり、後藤は黙り込んで俯いてしまった。

「?」

俺は一瞬後藤がどうして急に黙り込んだのか分からなかったのだが、自分がさっき言った言葉を思い返してみてハッとした。後藤は俯いたままで、その頬はほんのりと赤らんでいた。

「えーと、その、何だ...。ハハハハ...。」

俺は意味もなくカラ笑いをした。その場の雰囲気を誤魔化そうとする俺に対して、後藤はまじめな口調でこんな風に言ってきた。

「ほら、最近暑いじゃないですか。しっかり食べないと暑さで参っちゃうと思って、スタミナのつく料理なんかどうかなって私思ったんですよ。」

俺は後藤のそんな心遣いを素直に嬉しく思った。

「そっか...そうなんだ。ありがとうな、後藤。」

「ううん。そんな...。」

後藤は謙遜してそんな風に口にした。初夏特有の乾いた爽やかな風が、2人の間を優しく吹き抜けていった。その風は心地よい緊張感のようなものを俺達2人の周囲に残していった。

「...先輩...。」

後藤は何か強い意志を内に秘めたような真摯な眼差しで、こんな風に語りかけてきた。

「女の子ってきっと好きな人のためだったら何だってしてあげたいって思うし、どんなに辛いことがあったとしても好きな人の笑顔を思い出すだけで、前向きな気持ちになれるって思うんです。好きな人のために料理を作ってあげられることってとっても幸せなことだと思うし、全然辛くなんかないし、先輩の喜ぶ顔も私見たいし、だから、その...なんですか...。」

そこまでいっぺんに言うと張り詰めていた緊張の糸が緩んだのか、後藤は俺の右肩に頭を乗せると本当に静かな声でこんな風に囁いた。

「先輩...私先輩のこと好きになっちゃったみたいです...。好きなんですよ、私...」

後藤は自分の気持ちを一つ一つ手にとって確認するかのように、静かでゆっくりとした口調で俺にそう告白した。後藤の突然の告白に俺は驚いたが、それと同時にその時の俺の心の中には後藤のことを愛しく思う気持ちが満ち溢れていた。自分の思いを自分の言葉で健気にも語った後藤。

― 俺は後藤を愛しく思っていた。

「好きだよ。後藤。」

俺はごく自然なタイミングでそう口にしていた。それは自分自身でも驚くほどに、自然に違和感無く俺の口から発せられていた。

「ゴメンな。本当は俺のほうから告白するつもりだったんだ。それなのに...。」

俺がそこまで言ったところで、後藤は何も言わずに俺の右手をギュッっと握った。

「......。」

俺はそれ以上何も言わなかった。何かを口にしてしまうと、それがどんどん本当の気持ちを脚色してしまいそうな気がしたので、俺は何も言わずにただ後藤の手を強く強く握り締めた。お互いの気持ちを確認しあうには、ただそれだけの行為で十分だった。口にすればするほど薄っぺらくなってしまうだけの愛の言葉など必要なかった。手を握り合っているという事実、ただそれだけのことで2人は安心することが出来た。お互いの存在をすぐ傍に感じることが出来た。

暫くすると午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。しかし俺達2人は、そのチャイムが鳴ってもなお固く手を握り合ったまま、暫く屋上の片隅に佇んでいた。頭上に広がる青い空だけが、俺達の秘密の自由時間を見守っていた。


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【 11 】 ― 六感

7月も半ばに入り、夏の暑さも徐々に本格的になってきていた。放課後のサッカー部の練習前、俺と本間は2人組みになって柔軟体操をしていた。

「よっしゃ、じゃあ今度は俺が押してやる。本間君覚悟はいいかね?」

「あの、石川先輩...、お手柔らかにお願いしますね...。」

本間はひきつった笑顔を浮かべながら、俺の目の前に腰を下ろした。

「...ニィー、サン、シッ、ゴー、ロク.....。」

俺の掛け声と共に本間は前屈運動を始めた。

「い、石川先輩...痛いッス、痛いッス。」

「...ゴー、ロク、シチ、ハッッッチ!」

「フーーー。」

前屈運動を終えると本間は地面に仰向けに倒れこんだ。俺もそんな本間の横に腰を下ろした。

「...そういやあ、ぼちぼち合宿のシーズンだな。」

横に倒れている本間に向かって、俺はそんな風に言った。

「合宿っていつからでしたっけ?」

天を仰いだままの体勢で本間が俺に尋ねてきた。

「8月3日から1週間だったかな?ま、詳しくは後々監督から話があるとは思うけどな。」

「川村学園ってちゃんとした宿泊施設も完備されてるし、いいですよね。前の高校だとそういう設備に手を抜いていたから、色々と大変でしたよ。」

そう言って本間はペロッと舌を出した。

「そうだな。ウチの運動部の場合は殆ど学校で合宿をするからなあ。それもこれも、しっかりとした設備が整ってるからなんだろうな。」

そう言って俺は校庭の片隅にある真新しい宿泊施設に目をやった。その宿泊施設は白塗りの壁に大きな窓、そしてその周囲を雑木林に囲まれており、厳しい夏の暑さの中でも、その一角だけは涼しげな風情を醸し出していた。

「そう言えば石川先輩、話は全然変わるんですけど最近の梨華さんの様子ってどんなですか?」

唐突に本間がそんな風に俺に尋ねてきた。

「どんなって、何が?」

本間の突然の質問を不審に思った俺は、そう本間に対して問い返した。

「いや、何か悩んでいるだとか、そんな様子は無いかなと思って...。」

「いや、別に普通だけど。相変わらずのおちゃらけ天然っぷりだけどなあ。」

最近の梨華の言動を振り返ってみて、俺は素直に自分の思ったままを伝えた。

「そうですか...。」

そう言うと本間はジッと自分のつまさきの辺りを見つめたまま、何かを深く考え込んでいた。

「どうした?何か気になることでもあるのか?」

本間が割りと真剣に何かを悩んでいるような様子だったので、俺は心配して本間にそんな風に問いかけた。本間は地面の方から視線を上げると、俺の目をジッと見て真剣な表情でこんな風に言った。

「梨華さんって好きな人とかいるんですかね?」

「...ハ?何言ってんだよお前。まだ梨華に何にも言ってないのかよ。そういうことは自分自身で確かめろよ。」

本間の言葉に拍子抜けした俺は、深いため息と共にそう言い捨てた。すると本間は待ってましたと言わんばかりに身を乗り出して、人差し指を突き立ててこんな風に言った。

「そこなんですけどね。それっぽい雰囲気になったことは何度かあるんですけど、何かいざ告白の時っていうポイントになる度に上手く話をはぐらかされているような気がして..それでひょっとして梨華さん他に好きな人がいるのかなぁ、何て考えが浮かんで来ちゃうんですよ。」

「いやあ、別に恋煩いだとかそんな様子は特に無さそうだけどなぁ。」

梨華の普段の言動を思い返してみて、俺はそんな風に本間に伝えた。

「......。」

本間は名推理を敢え無く覆された時の探偵のように、上目遣いで宙を見上げると、『おかしいなあ』といった様子で首を大きく横にひねった。力強く突き立てられたものの、その勢いの行き場を失った人差し指で、本間はポリポリと頭を掻いていた。

「俺の勘って結構良く当たるんですけどねぇ...。まあ今回に限って言えば当たって欲しくはないんですけどね...。」

「俺はただ単に、タイミングが悪かっただけだと思うけどなあ。まあ、挫けないで何度でもチャレンジあるのみ!...だな。」

俺はそう言って本間の肩をポンポンと叩いた。

「...そうですよね!タイミングが悪かっただけですよね!『当たって砕けろ』、ドーーンとぶち当たって行くしかないですよね!」

俺の言葉に、本間は何となく元気を取り戻したようだった。

「そ、そ!上手くいかない時はいかない。いく時はいかない。人生ってそんなもんだ♪」

俺は笑顔で本間にそんな風に語りかけた。

「...それってどっちにしてもダメってことじゃないっすか....。」

「ん!?まあまあ、細かいことは気にすんな本間君!!そんなことじゃあ大物になれんぞぉ。」

「ハァ...。」

本間は訝しげな表情を浮かべつつ、俺の言葉に頷いた。俺達がそんな風に話をしていると、監督が集合の合図をかけた。

「よっしゃ、練習練習!本間行こうぜ!」

「あ、はい!」

俺と本間は立ち上がると、走って集合場所へと集まっていった。


↑ up



【 12 】 ― 監視

夏休みに入ってから既に5日が過ぎていた。その日いつものようにサッカー部の練習を終え自室に戻った俺は、ベッドに寝転んで取り留めも無い思考の渦の中にその身を委ねていた。TV画面では名も知らない新人ロックバンドのグループが、軽快にギターの絃を爪弾いていた。俺がそんなTV画面を眺めるとも無く眺めていると、階下から梨華が俺を呼ぶ声が聞こえてきた。

「おにーちゃ〜〜ん!電話だよ〜!」

俺はやおら起き上がると、筋肉痛の足を引きずりながら階下へと降りていった。俺が階段を降りていくと、梨華は階段の一番下の段に座り込んで、電話の相手と何やら楽しげに話し込んでいた。

「...だよねぇ!そうそう、それでさぁ、私も楽しくなってきちゃってさ...。」

梨華は俺が降りてきたことにも気付かずに、電話の相手との会話に花を咲かせていた。

「え〜、ウソー!!アハハハハ...。」

「おーい...梨華ちゃ〜ん...。」

「うんうん。あ、ちょっと待ってね。」

俺の呼びかけに気が付いた梨華は、受話器を手で押さえると俺に向かってこう尋ねてきた。

「何?お兄ちゃん、どうしたの?」

「いや...『どうしたの?』って、俺に電話じゃなかったの?」

俺がそう言うと梨華は頭をポリポリと掻いて、

「...あぁ〜、そうだった!電話電話!真希ちゃんから!」

と我に返った様子で受話器を俺に差し出した。取り次ぎの電話であることを忘れてすっかり話に夢中になる梨華 ― 。俺はやれやれ、といった感じで受話器を受け取ると、後藤と話を始めた。

「もしもし。俺だけど...、おう後藤、オッスオッス。」

梨華は階段の手すりの部分に頬杖をついて俺達のやり取りを伺っていた。俺は左手で『あっちに行ってろ!』というジェスチャーをしたのだが、梨華はそれを無視してその場に居座った。俺は梨華を追い払うことを諦めて、後藤との会話に集中することにした。

「先輩この間観たいって言ってたじゃないですか、『スター坊主 エピソード3 ・ ヨーダの第二ボタン』。家のお姉ちゃんに聞いたらDVD持ってるって言ってたんですよ。だから今度会う時に持っていこうかな、って思ったんですけど...。」

「ヘッ!?そうなんだ!貸してくれるの?」

「ハイ。」

「サンキュー後藤!お姉さんにもありがとうって言っておいてよ。」

「いいえ、そんな。」

後藤は謙遜した感じでそんな風に言った。

「...あの、出来れば...。」

「ん?何?」

後藤は照れるようにしてこんな風に続けた。

「...出来ればぁ、一緒に観たいですね...。」

俺が後藤に告白をしてから数日、俺達はデートらしいデートというものをまだしていなかった。お互いに部活が忙しいということもあり、夜の電話等で話をすることはよくあったのだが、実際に会ってどこかに出かけるという機会は今のところまだ無かった。

「...そうだね。一緒に、観ようよ。」

俺は後藤に対して、そんな風に答えた。

「ハイ...。」

横からは梨華の冷ややかな視線が送られていた。俺は梨華のいる方向に背を向けるような格好で話を続けた。

「あ、ところで先輩、サッカー部の合宿っていつからですか?」

後藤がそんな風に聞いてきた。

「えーと、8月3日からだな。」

「あ、そうなんですか。陸上部も丁度同じ日から合宿が始まるんですよ。」

「へえ、そうなんだ。」

...まーきー、ちょっと手伝ってぇー!...。

その時、後藤のことを呼ぶ声が受話器越しに聞こえてきた。

「あ、何か忙しそうだね。そろそろ電話切ろうか?」

「あ、ううん。大丈夫ですよ。平気、うん。」

後藤はそう言ったのだが、背後から彼女を呼ぶ声は止まなかった。

...ちょっと、まーきー!お願い!...。

「じゃあそろそろ。またこっちから電話するよ、後藤。」

「...すみません、先輩。」

後藤は申し訳なさそうにそう言った。

「それじゃあ、また。」

「うん、またな。」

そう言って俺は静かに受話器を置いた。

「『...そうだね。一緒に、観ようよ。』、だって。あーあ、妬けちゃうなぁ♪」

梨華は相変わらず頬杖をついたままの体勢で、こちらを見ていた。

「梨華、お前なあ...。」

そう言って俺は梨華の側に歩み寄り、階段に腰を下ろした。

「盗み聞きなんて趣味良くないぞ、梨華。」

「別にー。梨華は真希ちゃんがお兄ちゃんの毒牙にかからないように見張ってるだけだもん。」

梨華は頬を膨らませて、そう嘯いてみせた。

「全く、いつからそんなひねくれ者になっちまったのかねぇこの子は...。昔はもっと素直でいい子だったよ...。」

俺は老婆のような口調でそんな風に言った。

「フーンだ!お兄ちゃんが悪いんじゃない!バカっ!」

梨華はそう言ってそっぽを向いてしまった。

「なんだよそれ?訳分かんねえなあ。それよりも梨華、陸上部も3日から合宿なんだって?」

「...そうだよ。」

梨華は横目でこちらの様子を伺いながらそう答えた。

「へえ、奇遇だな。サッカー部と同じようなスケジュールなんだ。偶然偶然。」

そう言って俺は梨華の左肩をポンポンと叩いた。

「へぇ〜、真希ちゃんと一緒に過ごせるのがそんなに嬉しいんだ...。へぇ〜。」

そう言って梨華は、再び冷ややかな視線を俺に投げかけた。

「...梨華...。」

俺は打って変わって、真剣な表情を浮かべて梨華の方を見た。

「え...。」

梨華も急に態度を変えた俺に感化されてか、緊張した面持ちになった。

「俺はお前と一緒にいれることが嬉しいんだよ。」

「......。」

俺が真面目な口調でそんな風に言うと、梨華も真剣な表情のままこちらに視線を向けていた。瞳には心なしか涙のようなものが滲んでいるようにも見えた。

「...おにいちゃん...。」

「...だってさあ、考えても見ろよ梨華!目の前で梨華の珍プレーを見ることが出来るんだぜ!金も払わないであんな面白いもんが見れるだなんて、そりゃあ神様に感謝しなくちゃいけないってもんだろ。お前もそう思うだろ、な、梨華?!」

俺はそれまでの真剣な態度を一変させて、おちゃらけた調子でそんな風に梨華に言った。俺の言葉を聞いた梨華は、俯いたままでフルフルと体を震わせていた。

「ん、どした?梨華??」

『 ゴチン☆ 』

俺が話しかけた瞬間、梨華の鉄拳が俺の額目掛けて振り下ろされた。

「ってーな!あにすんだよ!梨華!!!」

俺は額を押さえつつ、そう梨華に訴えかけた。

「フンだ!お兄ちゃんの大バカ!業突く張りの穀潰しッ!!」

そう言うが早いか、梨華は自分の部屋に向かって駆け出していた。

「梨華!!」

俺は自分の部屋のドアノブに手を掛けている梨華の背中に向かって、踏みとどまるようにそう呼びかけた。梨華は立ち止まると、俺の言葉の続きを待つ様子で黙ってその場に佇んでいた。

「..『ゴウツクバリノゴクツブシ』ってなんだ??難しいコトバ、お兄ちゃんワカラナイ。」

俺の発した言葉が自分の意に反するものだったのか、梨華は俺の言葉を聞くと勢い良くドアを開けて、自分の部屋の中へと入っていってしまった。

『 バタン! 』

梨華の部屋のドアに掛けられた木製のプレートが、カラカラという空しげな音を周囲に響かせていた。俺は重く閉ざされた梨華の部屋のドアを、遠くから見つめることしか出来なかった。

「ったく、何だってんだよ梨華のやつ...。」

カリカリしている梨華の様子を目の当たりにして、俺はそんな風に呟いた。

「アホぅ。」

背後から唐突にそんな言葉が聞こえてきたために、俺は慌てて後ろを振り返った。そこには通りすがりの親父がおり、新聞を脇に抱えて俺の方をジッと見つめていた。

「わ、何だよ親父!」

突然姿を現した親父に驚いた俺は咄嗟にそんな風に口にしていたのだが、まるで俺の言葉を無視するかのように親父は無言のままその場を通り過ぎると、トイレに通じる廊下の角を曲がる所で、親父は誰に言うでもなく先程の言葉をもう一度口にした。

「アホぅ。」

そう言い残すと親父の姿は既に、俺の視界の届かない所まで移動してしまっていた。親父の吐いた言葉は、行き場を無くしていつまでもその空間にブラブラと漂い続けた。

「...何なんだよ!梨華といい、親父といい!」

俺もまた親父と同じように、誰もいない空間に向かって、宛ての無い苛立ちの言葉を吐き捨てていた。

2つの噛み合うことの無い言葉の断片だけが、その後も暫くの間、その場に所在無げに漂い続けていた。


↑ up



【 13 】 ― 花火

8月3日、合宿初日。我が物顔で大空に胡坐をかく太陽の発する焼け付くような強い日差しと共に合宿はその幕を開けた。合宿中は基礎体力作りからポジション毎の練習、そして全体的なフォーメーションのチェックに至るまで、詳細なところまで突き詰めて練習を行うこととなる。猛暑の中で集中力の途切れることの無い練習を行うということは、選手一人一人のスキルアップひいてはチーム全体の戦力アップに繋がることとなるのだが、その分必然的に、合宿中は選手の疲労もピークに達することを余儀なくされる。例年に漏れず、今年も厳しい合宿になるであろうことを俺は覚悟していた。

5kmのランニングを終え校庭に戻った俺は、先にゴールして校庭隅の水飲み場付近に腰を下ろしている本間の姿を見つけた。本間は身じろぎもしないで、校庭のある一点を見つめていた。本間の視線の先を追っていくと、そこには準備運動をしている最中の梨華の姿があった。同じ期間に合宿を行うということで、サッカー部と陸上部はそれぞれ反面ずつ校庭を使用していた。俺は本間の側に歩み寄り、汗を拭いながらこんな風に話しかけた。

「早いな本間。皆より一足先に筋トレやっておくか?」

「......。」

本間は俺の言葉が聞こえていないのか、梨華のいる方を見つめたまま微動だにしなかった。俺は本間の耳元で、大声で本間の名前を呼んだ。

「ほ・ん・ま!!」

「...うわぁ!」

本間は俺の声に仰け反って驚いた。

「...石川先輩...。」

「どうしたんだよ、本間?ボーっとして...。」

本間は正面を見据え、真剣な口調でこんな風に話した。

「石川先輩.....俺、決めました。誰にも負けたくないんですよ。サッカーに対する情熱も、そして梨華さんのことを想う気持ちも...。誰にも負けたくないんです。」

「...ああ...。」

そう言って俺も梨華のいる方向を見やった。

「だから...今日...。」

そこまで言ったところで本間は急に口篭り、何かを誤魔化すかのようにムニャムニャと言葉を濁した。

「...今日...?」

不審に思った俺は、本間にその言葉の続きを言うように促した。暫くすると、本間はその重い口をようやく開いてこう言った。

「今日...も練習頑張ります!行きましょう、石川先輩!!」

そう言うと本間はグランドの中央付近に走って行ってしまった。本間が真意を隠して、適当に言葉を濁しているということは明らかだった。

「おい!本当は何なんだよ本間!!」

そう言って俺も本間の後を追ってグランドに走って行ったのだが、とうとう本間からその真意を聞き出すことは出来なかった。そうこうするうちに全員がランニングを終了し、監督も交えての本格的な練習が始まった。


宿泊施設内部の食堂には、料理の香ばしい匂いが漂っていた。時間は夜の7時半、練習を終えた部員達は夕食に舌鼓を打っていた。

「あー腹減った。よっこらっしょっと。」

俺はそう言ってカレーライスやサラダ等の乗ったトレイをテーブルの上に置いた。

「初日から結構きつかったですよね。ホント。」

そう言って本間は、自分のトレイに乗せてあった水の入った2つのグラスのうちの1つを俺のトレイに移し、隣の席に腰掛けた。

「ああ、サンキュ。おかわり自由だったよな、早いとこ食べようぜ。」

食事は各運動部のマネージャー、或いは部員自身が作っていた。サッカー部の場合はマネージャーが2人いたので、合宿時の食事や洗濯等に関しては彼女達に一任されていた。

「......。」

「......。」

俺と本間は一言も言葉を発せずに、黙々と食事を食べ続けた。それほどまでに俺達の体力の消耗は激しかった。

「何、何〜?2人ともどうしちゃったの〜?随分お行儀良く食べてるじゃない。」

無言で食べ続ける俺達に向かって背後からそんな風に声が掛けられた。振り返ってみるとそこには、トレイを持った梨華の姿があった。そしてその背後からは後藤がこちらに歩み寄ってくる姿が見えた。

「ほらあ、もっと楽しくお話しながらご飯食べようよ。黙ってないでさぁ。」

そう言って梨華は、俺達の正面に回り込んでトレイを置き、席に着いた。

「うるせいやい。 『腹が減っては戦は出来ぬ』 って言うだろ。ものを喰うこと、これ大事。分かるか?」

そう言って俺は、箸で茶碗をコツコツと叩いた。

「ナニナニ?どうしたの?」

俺達のやり取りを聞きつけた後藤が、そんな風に言いながら梨華の隣に腰を下ろした。

「お兄ちゃんと世界の食糧事情と家庭崩壊の関連性について討論をしてたの。だってさあ...。」

「梨華ちゃん、なに小難しいこと言ってんの?」

梨華の場違いな言葉を聞いて、後藤は首をひねって見せた。

「あ、そうだ先輩!これ、私が作ったんですよ。食べてみます?」

席に着くなり後藤はハッと思い出したようにそう口にすると、ひじきの煮物が入った器を俺の方に差し出した。

「え!?そうなんだ。」

「陸上部のご飯作るの、私もちょこっとだけですけど手伝ったんです。」

そう言って後藤はニッコリと微笑んだ。

俺は、後藤の差し出した器に箸を伸ばした。

「フムフム...。ん、美味い!さすが後藤!」

おかずを口にして、俺はそんな風に後藤に言った。

「ホントですかぁ!良かったー。」

そう言って後藤は嬉しそうに笑った。

「梨華は何か作んなかったのかよ?」

俺たちのやり取りを目の当たりにしていた梨華に対して、俺はそんな風に問い掛けてみた。

「...作ってないよ。梨華は後片付けのお手伝いをすることになってるんだもん...。」

そう言って梨華はつまらなそうに俯いた。

「後片付けですか。大変ですね、梨華さん。もしよかったら俺も手伝いますよ。」

落ち込んでいる様子の梨華に向かって、本間がそんな風に声を掛けた。

「ううん、そんな、いいんですよ本間さん。」

梨華は本間の申し出に対して、そんな風に遠慮した。

「いやいや、遠慮しなくていいんですよ梨華さん。一緒に皿洗い、やりましょ。」

「ううん、本当にいいんですよ本間さん。」

押し問答を繰り返す2人。そんな2人の様子を見てもどかしく思った俺は、梨華に対してこんな風に言った。

「まあまあ、本間がこんなに言うんだから手伝ってもらえば良いじゃないか、梨華。」

本間が俺の言葉に乗じて、さらに梨華に働きかけた。

「そうですよ、梨華さん。」

「...ええと...はぁ...。」

本間の積極的な働きかけに対して、梨華はそんな風に曖昧な返事をした。

「じゃあ決まりだ!夕食の時間が終わったら、また食堂まで来ますね梨華さん!」

そう言って本間は、再び目の前の食事を勢い良く食べ始めた。梨華は俺の方を睨んで『 余計なこと言わなくて良いのに! 』 という表情を浮かべて見せた。俺はそ知らぬ顔で、梨華の訴えをやり過ごした。

そんな風に取り留めも無い話をしているうちに、夕食の時間はあっという間に過ぎてしまった。


『 ヒューー、パン、パン! 』

闇を切り裂く鮮烈な音と共に、眩い光が夜の校庭の片隅を彩った。自由時間を過ごしていたサッカー部員と陸上部員の注目が、夜空に咲く一輪の華に集まる。

「オーイ、お前等出て来いよ!」

それは監督の声だった。サッカー部員と陸上部員が入り乱れて、外にいる監督の周囲へと集まる。そこには陸上部の顧問の先生の姿もあった。

「こっちにも色々あるから、お前等好きなやつやれよ!」

そう言って監督は懐中電灯でコンビニの袋を照らし出した。それは寝苦しい夜にひと時の夏の風情を、という監督達の粋な計らいだった。部員達は思い思いの花火を手にすると四方に散って花火遊びに興じていた。夜の闇の中、あちらこちらで美しい光の華が咲き誇っていた。俺は人ごみから少し外れた所に佇む梨華と後藤の姿を見つけた。背後から歩み寄り俺は2人に声を掛けた。

「お、やってるな。お二人さん!」

俺の言葉に梨華が振り返る。

「あ、お兄ちゃーん!!ほら、一杯あるからお兄ちゃんも一緒にやろうよ!」

そう言って梨華は、手持ち花火等の詰まった花火セットの袋を手に持って上下させた。

「お、いいね。やろうやろう。」

そう言って俺は2人の輪に加わった。

「あれ?啓ちゃんは?」

後藤がそう言って辺りをキョロキョロと見回した。

「ああ、本間なら...。」

そう言って俺は手に持った花火で本間のいる方向を指し示した。本間は30m程離れた所で、監督達の上げる打ち上げ花火の輪の中に加わっていた。

その様子を確認した後藤は、再び自分の手持ち花火に視線を落とす。

「すごくキレイだねぇ。でもまさか校庭の真ん中で花火が出来るなんて思っても見なかったなあ...。」

色とりどりに瞬く光に照らされながら後藤がそんな風に言った。

「俺も夏の合宿は今回で3回目になるけれど初めてだなあ、こんな風にみんなで花火をするだなんて...。ま、今年は監督達の出血大サービスってところなのかな。」

取り留めの無い会話をしながら、俺達は夏の風物詩を楽しんでいた。辺りに立ち込める硝煙と火薬の匂い、俺達は暫し時を忘れて花火の紡ぎ出す幻想的な世界に夢中になっていた。


「おーい、真希ィ!ほら、パラシュート花火やるってよ!お前好きだったろ、こっちに来いよ!」

打ち上げ花火の輪の中から、本間が後藤に対してそんな風に呼び掛けた。

「まったく啓ちゃんたら何年前の話をしてるのかしら。それに夜なんだから、パラシュートだって見えないでしょうに。」

小さな溜息と共に後藤がそんな風に呟いた。

「真希ィ!来いよォ!」

「ハーーイ!!」

後藤は間断なく自分の名前を呼び続ける本間に対してそんな風に返事をすると、本間のもとへと駈け寄って行った。後藤がいなくなり、その場は俺と梨華の2人だけになってしまった。梨華は袋から線香花火の束を取り出し、その内の一本を俺に渡しもう一本を自分の手に持った。

「お兄ちゃん、火、点けよ。」

俺は梨華に促されるままに、梨華と自分の線香花火に火を点けた。線香花火の繊細な光の粒子が、濃厚な闇の中に静かに溶け落ちていった。俺達の背後からは少し強めの夜風が吹き付けていた。俺と梨華は無言のうちにお互いの身を寄せ合い、弱々しい光の瞬きが途絶えることの無いように見守っていた。

「お兄ちゃん...。」

梨華が闇夜に染み入るような落ち着いた口調で話し始めた。

「ん?」

俺はそう言って梨華の方を見た。梨華は線香花火の先端を見つめたまま、言葉を続けた。

「...私ね、本間さんに告白されちゃった...。」

線香花火の発するパサパサという乾いた燃焼音が、2人の会話のすき間を埋めていった。俺は自分の胸の鼓動が速まっていくのを感じていた。『梨華のことが好き』という自分の中では既に押し殺して封印したはずの感情が、首をもたげて再び暴れだしてしまうのではないかという危惧の念が、その時の俺の胸の内にはあった。俺は無意識のうちに後藤の笑顔を、自分の胸の中の最も弱くて繊細な部分に思い浮かべていた。そうすることで俺は多少落ち着きを取り戻すことが出来た。俺は改めて梨華に、ことの経緯を尋ねてみた。

「告白されたって、いつ?」

「ん...さっき。夕飯の後片付けが終わった後に...。」

梨華は線香花火を見つめながら、そう口にした。

「それで?」

俺は矢継ぎ早に質問を繰り返した。

「『それで?』って?」

俺の質問の真意を計りかねた梨華は、俺の方を見て逆にそんな風に質問をした。

「...いや、OKしたのかどうかってこと...。」

結論を急ぎすぎている自分に反省して、俺は一つ小さく呼吸を整えると、そんな風に梨華に対して質問を繰り返した。梨華は小さな微笑みと共に、静かな口調でこんな風に答えた。

「うん...。OK、したよ......。」

「...どうして?...。」

俺は殆ど無意識のうちにそんな風に口にしていた。俺の心の中には、梨華が例え本間に告白されたとしても、その申し出を梨華が簡単に受け入れることは無いだろうという思い込みがあった。一体どこからそんな感情が生まれてきたのか俺自身にもよく分からなかったのだが、確信にも似た根拠の無い自信のようなものが俺の胸の内にはあった。しかし梨華は俺の思い込みとは裏腹に、本間の申し出に対してOKを出したと自らの口で今ハッキリと明言した。そのことが俺には意外であり、無意識のうちに俺は先のような言葉を口にしていた。

「『どうして?』って?」

俺の不可解な言葉を耳にして梨華はそう言って首をひねって見せた。梨華にしてみればそのような返事が返ってくるとは夢にも思ってみなかったわけであるから、梨華がそんな風に口にするのも当然と言えば当然の成り行きだった。

「......。」

俺は梨華の問い掛けに対して、自分が返すべき適当な言葉を見つけられずにいた。そんな俺を尻目に梨華は話を続けた。

「私、今まで正面からちゃんと本間さんの気持ちと向き合ったことがなかったんだぁ。きっと怖かったんだと思う。いろいろなものが変わっていっちゃうんじゃないかっていう気がして、本間さんの気持ちを受け止める勇気が私には無かったんだ。だから本間さんの気持ちをはぐらかしたままで今まで来ちゃったんだけど...でもちゃんと向き合わなきゃいけないんだよね。本間さんのためにも、私自身のためにも、そして何よりも....」

そこまで言うと梨華はチラリと後藤のいる方向を見やった。後藤は本間の隣で、打ち上げられたパラシュートの所在を夜の闇の中に捜し求めていた。

「お兄ちゃん、真希ちゃんのこと大切にしなきゃダメだよ!真希ちゃんは梨華の、かけがえの無い大事な友達なんだから!」

そう言って梨華は俺の背中をドンと叩いた。

「...ああ...。」

俺は放心状態のまま、梨華の申し出に対してただ事務的に相槌を打つことしか出来なかった。

やがて、俺と梨華の持つ線香花火の先端に残った小さな紅い火玉が音も無く静かにその輝きを失っていくと、辺りは海の底のような濃密で深い暗闇に包まれていった。


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【 14 】 ― 喪失

「ラスト10だ!!来い!!」

昼間からの蒸し暑さも手伝い、キーパーである俺自身は勿論ボールを蹴る後輩の体力も最早限界に達し、立っているのがやっとといった状態だった。合宿最終日はグランドにいる部員達の体をジワジワと蝕むような、湿度の高い最悪の天候だった。上空は晴れてはいるのだが、身動き一つするたびに鬱陶しい湿った空気の塊が体中に纏わりついて否応無く部員達の体力を削ぎ取っていった。木陰には横になって倒れ込んでいる部員の姿もあった。明らかなオーバーワークであることは、他でもない俺自身が一番良く分かっていた。練習に付き合わせている部員には悪いとは思ったが、俺はそんな風に体を限界以上に酷使せずにはいられなかった。俺のオーバーワークは2日目以降ずっと続いていた。合宿初日の夜に本間が梨華に告白したことを耳にして以来、俺は何かを振り払うかのように練習に没頭し続けていた。本間が梨華に告白したことを聞いた時、俺は心からそのことを祝ってあげられずにいる自分自身の心境を見出してしまった。

『俺は後藤のことを愛しく思っているんだ。なのに何でこんな心境になるんだ?』

悶々として悩み苦しむことよりも、俺は自分の体を徹底的に苛め抜くことを選んだ。体を苛め抜くこと ― 、その先に確かな答えがあるとも思えなかったが、一時的であれ俺はその悩みから解放された。本間はゴールの裏手で片時も視線を外さずに、鬼気迫る俺の様子をジッと見守っていた。


午後4時、最終日はいつもよりも早めに練習が終了となった。部員達は各々、トンボ掛けやボール拾い等をしてグラウンドの整備を始めていた。俺は手早くボール拾いを済ませると、新しいTシャツと短パンへ着替えを済ませてロードワークへと出発した。スタートして3分位したところで、俺は背後に人の気配を感じた。振り返るとそこには、ランニングウェアに身を包んだ本間の姿があった。本間は何も言わずに、黙々と俺の足跡をなぞるように走り込みをしていた。本間の存在に気付いた俺は若干ペースを上げ、同様に無言のままに本間を先導した。出来れば俺は本間の顔を見たくは無かった。こんな不安定な気持ちのままで本間と向き合ってしまったら、俺は自分が何を言い出してしまうか分からないという、自制心の利かない、捕らえ所の無い未開の感情に支配されてしまいそうで怖かった。俺はピッチを上げた。誰にも捕まりたくは無かった、俺のことなど誰も知らないこの世の果てへと逃げ出してしまいたいような心境になっていた。しかしそんな俺の気持ちなど知る由も無い本間は、しっかりと俺を捕捉し俺を一人にさせてはくれなかった。やがて俺は己の心肺機能のキャパシティーを超え、前のめりになって道端に倒れ込んだ。程なくすると後続の本間もまた、俺と同様に道端にドッカリと倒れ込んだ。俺は肩で息をしながら天空を仰ぎ見た。

「...石川先輩、どうしたんですか?最近の石川先輩、ちょっと変ですよ、らしくないですよ...。」

本間が息を切らせながらそんな風に語りかけてきた。

「...本間、お前確か合宿の初めに言ってたよな。『サッカーに対する情熱は誰にも負けたくない』って。俺も同じなんだよ。誰にも負けたくないんだ、サッカーに関することでは...」

俺は本間と目を合わせることなく、本間の問いに対してそんな風に答えた。

「...梨華さんのことを想う気持ちもですか...?」

本間の口から発せられた思いがけない問い掛けに俺はハッと息を呑み、本間の瞳を正面から見据えた。本間は視線をそらすことなく、こう言葉を続けた。

「俺、確かにあの時言いました。サッカーに対する情熱と梨華さんのことを想う気持ちは誰にも負けたくないって...。先輩の最近の言動っていうのは、そんな俺の言葉に対する反発心からなんですか?サッカーに対する情熱だけじゃなくて、梨華さんのことを想う気持ちも誰にも負けたくないってことなんですか?」

本間の質問に対して、俺は自分の素直な心情を吐露した。

「...分からない...。」

「......。」

『 分からない 』という答えは、本間の意図していた答えとは合致しなかったようだった。本間が聞きたかったのは恐らく、『分からない』という曖昧な返事ではなく『違う』というハッキリとした否定の言葉であったのだろう。しかし俺は素直にありのままの感想を口にしていた。期待を持たせるような言い回し、それは単なる言い逃れに過ぎず、大局的に見ればそのことに関連する人々に多大な迷惑と精神的なダメージを与えることになるであろうことは、当事者である俺自身がよく分かっていた。俺はもう、自分の気持ちに嘘をつきたくは無かった。

「ひと雨来るな...。」

俺はそう言って泣き出しそうな空に向かって大きな溜息を一つついた。やがて降り注ぐであろう雨が、ささやかな幸福をもたらす雨になるのか、それとも比類なき悲劇をもたらす雨になるのかはその時の誰にも知る由が無かった。


ロードワークから戻り、シャワーを浴びて宿泊施設内の休憩室で一息ついていると、俺は建物の中を忙しなく走り回る梨華の姿を見かけた。

「梨華。」

俺は殆ど無意識のうちに梨華に声をかけていた。俺の声に気が付いた梨華はパタパタと俺の元へと歩み寄ってきた。

「ああー、おにーちゃーーん!丁度いいトコに...。ちょっと手伝って!!」

「じゃあな...。」

そう言ってその場を去ろうとした俺のことを、梨華は腕を掴んで引き止めた。

「ちょっと手伝ってくれてもいいじゃない!雨が降ってきそうだから今皆で用具を片付けてるところなの!手伝ってよぉ〜!!」

「え〜、やだよう。シャワー浴びてせっかくポカポカなのにぃ...。」

そんな風にやり取りをしているうちに、外から梨華を呼ぶ声が聞こえてきた。

「石川さ〜ん、メジャーってもう、しまちゃったんだっけぇ〜?」

「ハイハイ、メジャーは、ええと...。」

そう言うと梨華は慌しくその場を後にした。梨華の姿を見送ると俺はソファーに腰掛けて手にしていたサッカー雑誌を広げた。俺が記事に目を通していると、そこに本間を引き連れて監督がやって来た。

「石川、ちょっといいか?」

「...はい。」

監督は俺の隣に本間を座らせると、正面の席に腰を下ろして話を始めた。

「1週間後の練習試合なんだけどな、今回は本間に先発させようと思うんだ。」

「...ハイ。」

監督の言葉を聞いて、俺は静かに頷いた。本間は膝の上で両手を組み合わせたまま、無言で監督の話を聞いていた。現状から考えてみれば、それは極めて妥当な判断だった。体力、判断力等、状況から鑑みるに、現時点では明らかに本間の方に分があった。俺は自分なりに必死で努力はしてきた。必死で頑張ってきたからこそ、俺は今回の監督の判断に素直に賛同することが出来た。

「今までのフォーメーションを崩すことに抵抗が全く無かったと言えば、それは嘘になる。俺も正直怖い部分はある。でもな―。」

「監督 ― 。」

俺は監督の言葉を途中で遮った。

「ん?」

監督は俺の言葉に耳を傾けてくれた。

「監督、俺はチーム全体の戦力アップに繋がると監督が判断したことであれば、その判断に素直に従います。悔しさはそりゃあありますよ。でもその悔しさをバネに俺はこれからも頑張って行きます。」

俺の冷静な言葉を聞いて、監督も安心出来たようだった。

「そうか...。」

監督はそう言って頷くと、タバコをくわえ、ライターで火を点けた。タバコの煙が透明な空間に絡みつきながら上昇していく。

「先生ちょっといいですか?」

その時監督の背後から、陸上部の顧問の教師が監督に声を掛けてきた。

「はい。」

監督はそう返事をすると、灰皿でタバコを揉み消して席を立った。

「じゃ、俺はちょっと行くからな。」

監督はそう言い残すと、足早に駆けて行った。

「...石川先輩...。」

本間が俺のことを気遣うように声を掛けてきた。俺はそんな本間に対して、こう言った。

「本間、頑張ってくれよな。何も遠慮することは無いよ。お前は実力で、そのポジションを勝ち取ったんだ。俺に気を使う必要なんて全然無いんだよ。」

「...はい、俺頑張ります...。」

そう言って本間は手を差し出してきた。俺は激励の意味を込めて、本間の右手を強く強く握り返した。


その頃外の天候は雨脚が激しくなり、本格的な土砂降りへと変容していった。午前中から不安定な天候が続いていたこともあり、頭上では怒り狂うように雷鳴が鳴り響いていた。そこに、ずぶ濡れになった陸上部員が建物内部へと雪崩れ込んできた。そしてそこには後藤の姿があった。

「ひぇー、ビショビショだぁ。あーあ。」

「おう、真希。大丈夫か?」

本間は立ち上がり、そう後藤に声をかけた。

「あー、啓ちゃん。も、酷いよ!土砂降りだもん。」

そう言って後藤は濡れた上着を手で拭った。しかし手で拭った位では、びしょ濡れになった上着の湿気を拭い去ることなどは到底出来なかった。

「早いとこ風呂に入ったほうがいいよ。風邪ひくぞ。」

俺は本間の隣に並んで、後藤にそう声を掛けた。

「あー、先輩。も、外すごいですよ。雷がゴロゴロ鳴っちゃって。何かどんどん近づいてくるみたい...。」

後藤の言う通り、雷鳴はどんどん大きくなり、閃光が発せられてから雷鳴が鳴り響くまでの間隔も、どんどん短くなっているのが良く分かった。

「あれ?梨華は?」

いつも後藤の側にいるはずの梨華の姿が無いことに気が付いた俺は、そう後藤に対して尋ねてみた。

「あれ、梨華ちゃんは?」

後藤はそう言って周囲をキョロキョロと見回した。しかし梨華の姿は何処にも見当たらなかった。

「先輩、梨華ちゃんってどこに行ったか知りません?」

後藤は陸上部の先輩を捕まえて、そんな風に尋ねた。

「さっき体育倉庫の裏の物置小屋に入ってく所は見たけど...。この雨だから中で雨宿りでもしてるんじゃないか?」

そういい残すとそいつは後藤の横を通り過ぎて行った。

「......。」

俺は胸騒ぎがしていた。こういうのを『虫の知らせ』と言うのだろうか?そこはかとない焦燥感と切迫感。俺は得体の知れない、不気味な何かに押し潰されそうになっていた。

『 ━━  ピシッッッ!!!! ━━ 』

その時、建物内部に振動が走った。と同時に何人かの女生徒の悲鳴が館内に反響した。どうやらかなり近くに落雷した模様だった。外を見ると体育倉庫の方角から白煙が上がっている様が見て取れた。

「落ちたぞ!多分、体育倉庫裏の杉の木だ!」

誰かが大声でそんな風に叫んだ。

「先輩ッ!!物置小屋に梨華ちゃんが!!」

後藤の言葉を聞くと同時に、俺は雨の中、体育倉庫裏の物置小屋に向かって駆け出していた。後藤と本間、そしてその場にいた何人か人間が俺の後に続いていた。俺は降りしきる雨の中、目的地に向かって全力疾走していた。

『 ― 梨華!梨華!!梨華!!!』

俺は心の中で、何度も梨華の名前を繰り返し呼び続けた。現場に到着すると、その余りに衝撃的でリアルな光景に俺は息を呑んだ。

雷は物置小屋の脇にある杉の木に落ちたようだった。杉の木の幹は真っ二つに折れ、燃え盛る枝が物置小屋の屋根の辺りに落下しており、そこは既に火の海と化していた。俺は大声で梨華の名前を呼んだ。

「梨華!!オイ、梨華!!」

返事は無く、目の前では燃え盛る炎がその勢いを増すばかりだった。その場には本間、後藤を含め数名の姿があったのだが皆が目の前で燃え盛る建物の前にただ立ち尽くすことしか出来なかった。その中に梨華がいるという事実を認知するには、その光景はあまりにも暴力的で絶望的に過ぎた。

「消防車は!?救急車は!?」

誰かが悲鳴に近い声でそう叫んだ。

「今、呼んでるよ!」

携帯電話越しに、誰かがそう口にした。

消防車や救急車が到着するまで、ジッとしているなんて俺には出来なかった。

「俺が行く!!」

俺はそう口にして、燃え盛る物置小屋に歩み寄っていた。すると後藤が後方から駆け寄ってきて、俺の左腕を掴んで俺の行動を制しようとした。

「無理だよ!先輩が死んじゃうよ!!」

そう言う後藤の瞳からは、雨の雫とも涙とも判別のつかぬ幾筋もの煌きが滴り落ちていた。

「死んでもいいんだ。もし1%でも梨華が助かる可能性があるんだとしたら、俺はその可能性に賭けたい。大事な人を失うのは、俺、もう嫌なんだ。」

そう言って俺は後藤の手を振り解いた。後藤は俺の言葉を聞いて、何も言わず力無くその場に座り込んだ。

「石川先輩!!」

そう言って本間が俺の背後に駆け寄ってきた。

「これ、使って下さい。」

そう言うと本間は俺に、白いスポーツタオルを手渡した。俺は無言でそのタオルを受け取ると、物置小屋に向かって走り始めていた。

建物に接近するにつれて熱は肌を刺すような激しい痛みに変わり、燃え盛る炎は俺の体をその身に取り込まんとせんばかりに激しく燃え猛った。俺は持っていたタオルを水につけて濡らし、それを頭に巻いた。煙の立ち込める中、入り口の引き戸を力一杯引いたのだが、戸は無情にもビクともしなかった。俺は戸を開けることを諦め、右足で思い切り戸を蹴破った。戸は思ったよりも簡単に蹴破ることが出来、俺は板を剥いで屈んで通ることの出来るぐらいのスペースを作り出すことに成功した。俺はそのスペースを通り、建物の内部へと入っていった。建物の内部は予想していた以上に煙が充満していた。俺は身を屈めて建物の内部の状況を子細に観察した。外から見ると建物の屋根、及び建物の周囲は激しい炎に包まれていたのだが、内部の損傷はそれ程激しくは無かった。火の廻りも建物内部全体までは及んでおらず、建物の上部が激しく燃えているに過ぎなかった。しかし長居は禁物だった。いつこの建物自体が倒壊を始めてもおかしくは無い、そんな状況だった。俺は必死で梨華の姿を捜し求めた。煙が充満している上に姿勢を低くしているために視界が利かなかったのだが、俺は建物奥の棚の下にうつ伏せに倒れている梨華の姿を発見した。用品整理用の棚は梨華の上に覆い被さるように倒れていた。俺は梨華の元へと駆け寄ると、梨華に覆い被さる棚の下側に手を入れて精一杯の力で棚を持ち上げた。立ち込める煙の中、結構な重さのある木製の棚を持ち上げる作業は容易ではなかったが、俺は何とか棚を持ち上げると、その棚を梨華の倒れている方とは反対側の方向に倒すことに成功した。

梨華の手元には携帯電話が落ちており、俺はその梨華のものだと思われる携帯電話を折り畳むと、自分のポケットの中に仕舞い込んだ。パッと見たところ梨華の体には目立った外傷も無く俺は取り敢えず一安心したのだが、一連の行動のうち梨華は一言も言葉を発しなかった。俺は梨華の頬を叩いて彼女が正気づくように促した。しかし梨華が何の反応も示さなかったために、俺は取り敢えず梨華を連れてここから脱出することを先ず第一に考えた。俺は自分の頭に巻いていたタオルを外し、梨華の頭にそれを巻いてやった。湿り気はだいぶ失われてはいたものの、何も頭につけないでいるよりはいくらかでもそれで頭部を保護することは可能だった。何しろ梨華は気を失っているのだ。熱いだとか痛いだとかいった感覚が喪失されている彼女に対しては、いくら気を使っても気を使いすぎるということは無かった。俺は中腰の体勢のまま梨華の両脇に背後から手を回して、上半身を抱え上げるような姿勢で入り口付近まで引きずって行った。

『梨華、もう少しだからな。』

俺は心の中で梨華にそう語りかけると、残された力を振り絞って屈んだ姿勢のまま梨華を建物の外へと引きずり出した。俺は急いで梨華を抱え上げると、バランスを崩しながらも何とか皆のいる安全な地域へと移動した。


口々に皆が俺と梨華に声をかける。しかし微動だにしない梨華の様子を目の当たりにすると、周囲の緊張感は一気に高まった。

「救急車ぁぁーー!!」

俺は逸る気持ちを抑えきれずにそう絶叫していた。程なくして救急車が到着し、俺は梨華と共に救急車に乗り込むとすぐに近くの病院へと搬送されていった。俺は梨華の顔をマジマジと見つめ、傷や火傷の跡が無いことを確認すると、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。俺に専門的な知識があるわけではないから、まだ安心できる状況かどうか安易に判断することは出来なかったが、取り敢えず梨華が元のキレイな顔立ちのままであるということは、俺を幾分か安心させた。救急隊員も俺の状況説明を耳にすると、『よくまあ、かすり傷一つ無く』という意外そうな顔をした。梨華は呼吸、心拍数ともに正常で『ただ眠っているだけなんだよ』と言ってしまえば、その言葉を10人中9人以上は信じるであろうと思える位、安らかな顔をしていた。一方の俺はと言えば、至る所にかすり傷や火傷の後が見られたのだが、

「もうすぐ病院ですから、もうちょっと我慢して下さいね。」

という救急隊員の羊の皮をかぶった狼的な発言に大人しく従い、ギュッと梨華の手を握ったまま、緩慢に流れる時の流れをどうにかやり過ごしていた。暫くすると救急車は病院へと到着し、梨華は検査を行うためにストレッチャーで病院内部の処置室の方へと運ばれて行った。俺は俺で、火傷や傷の簡単な治療を看護婦の方々にお世話してもらっていた。簡単な治療を済ませてもらうと、ベッドで少し横になって休んだ。俺は目を瞑って梨華の姿を想像していた。梨華は快活なさまで飛びきりの笑顔を浮かべて、俺の記憶の淵を漂っていた。

『梨華......。』

俺は寝返りを打った。

「?」

寝返りを打ったところで、俺は自分の左大腿部に物が当たるような違和感を覚えていた。

『何だろう?』

俺はそう思って自分のズボンの左ポケットを探ってみた。そには梨華を救出する際に俺が拾い上げた携帯電話が入っていた。梨華を救出することに余りにも夢中だったため、俺はそんな携帯電話の存在さえも忘れかけていた。俺は梨華の折り畳み式のピンク色の携帯電話を取り出した。俺は砂埃で汚れた上面部を手の平で一拭いすると、ゆっくりと携帯電話を開いてディスプレイに目をやった。ディスプレイには編集途中のメールと思しき文字列が映し出されていた。気を失う直前まで恐らく梨華は必死でこのメールをしたためて、誰かの救出を待ったのだろう。

「......!?」

と、携帯電話のディスプレイを目にした俺は、ある文字列を見て自分自身の目を疑った。


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― 『本当の妹以上に』 ―

俺は軽く混乱していた。その文字列は俺の目に焼きついて離れなかったが、それが何を意味するものなのかということを俺は計り兼ねていた。混乱を振り払うために、俺はゆっくりと深呼吸をして落ち着きを取り戻そうと思った。しかし動悸は容易には治まりそうもなかった。俺は混乱の中、明確な答えの示されることの無い自問を繰り返していた。

『梨華は、俺達が血の繋がらない兄妹であるということを知っていた?!』

自分が真実だと思い疑わなかったものが覆された時というのは、前後を見紛う程の混乱と説明のつかない焦燥感とに苛まれるものだ。あの時はどんな風に思っていたのだろう、あんな風に言っていた時の真意はどんなものだったのだろう。今まで特に気にも留めなかった梨華との一つ一つのやり取りが、俺の頭の中で走馬灯のように目まぐるしく遷ろう。血の繋がらない兄貴と知りつつも梨華が俺に与えてくれた太陽のような笑顔と、精一杯の親愛の情。その一つ一つを思い出すにつけ、俺の胸は燃えるように熱くなり、打ち震えた。

俺達家族は個人の意見を十分に尊重し、お互いを思いやる気持ちを本当に大切にしてきた。人間性の尊重と慈愛の精神。俺達は血の繋がり以上に、固くて揺ぎ無い関係性を築き上げてきたはずだという自負の気持ちがあった。血の繋がっている家族以上に、俺達は固い絆と愛でお互いを守りあい、生活を共にしてきた。そしてその事実は、混乱する俺の心情を少なからず落ち着かせた。

『梨華が事実を知っていたからといって、なんら不都合は無い』

当初は無意味な焦燥感に苛まれた俺だったが、今までの俺達家族の在り方を振り返ってみて、俺は自分自身と俺達家族の在り方について自信を取り戻すことが出来た。俺達は紛れも無く、真の『家族』だった。

やがて親父と恭子さんが病院に駆けつけた。2人は俺の無事を確認すると、梨華の容体について俺に色々と質問をしてきた。俺は自分の知っている限りの情報を2人に告げると、

「あとは医者の診察の結果がどう出るかだな。」

と言って静かに天を仰いだ。

『どうか梨華が無事でありますように...。』

そこにいる誰もが同じ心境だった。親父は落ち着き無くタバコを口にしてはソワソワと歩き回り、恭子さんも神に祈るように両手を組み合わせたまま項垂れていた。そうしているうちに一人の医師が俺達の目の前にやって来た。胸に着けてあるネームプレートには、『川合』という文字が刻まれていた。

「石川さんのご家族の方ですね?」

医師は俺達にそう声をかけた。

「ハイ、そうです。」

親父が慌ててそう返事をすると、医師は俺達を診察室と思しき個室へと招き入れた。机の正面には梨華のものと思しきレントゲン写真がズラリと並べられ、緊迫感溢れるその風景に、俺達は畏まり、押し黙ったままでその場に佇んでいた。

「どうぞ、お座り下さい。」

医師が親父にそう言って、着席するように促す。親父は椅子に座ると、緊張した面持ちでゴクリと唾を飲み込んだ。医師は咳払いを一つすると、俺達に対して梨華の容体についての説明を始めた。

「これは頭部、胸部、及び下半身のレントゲン写真ですが...。」

俺達はジッとレントゲン写真に見入る。恭子さんはハンカチをきつく握り締めたまま、医師の言葉を待つ。

「損傷は一切ありません。キレイなもんです。」

緊張したその場の空気が一気に和む。医師は淡々と説明を続ける。

「CT、MRIの結果も異常無しです。内臓の損傷等は見られません。」

場の雰囲気は一気に明るいものとなる。その雰囲気を更に助長するかのように、医師は続ける。

「目立った外傷、火傷などもありません。まあ、言ってみれば健康体そのものですな。」

そう言って医師は白い歯を覗かせた。俺達は心地よい脱力感と共に、互いに目配せをして喜びを分かち合った。

「ただ......。」

と、俺達の喜びに水をさすかのように、医師は表情を曇らせ、こんな風に説明を続けた。

「多少、記憶の混乱が見られます。外傷が無いことからショック性の一時的なものだとは思われますが...。」

「先生、『記憶の混乱』とは一体何なんでしょう?」

親父が医師に対して、そんな風に質問をした。医師は頭をポリポリと掻くと、眉をひそめてこんな風に話を続けた。

「私もなにせ専門外のことなので詳しくは説明出来ないんですけれども、例えば私が娘さんに、『お名前は何て言うんですか?』という質問をした時に、娘さん、最初は何も答えることが出来なかったんですよ。混乱が治まり、落ち着きを取り戻すと色々と答えることが出来るようにはなったんですがね。外傷が見られないことから、表面上は異常無しと言う事が出来るのですが、後は落ち着きを取り戻し、実生活上で支障を来たさない程度に記憶が回復するのであれば、それ程問題は無いと思うんですがね。ひょっとしたら時間の掛かることになるかも知れませんが、まあ、この辺は精神科の先生を交えてお話ししないといけないことでしょうし...。」

医師は咳払いを一つすると、こんな風に言葉を続けた。

「とにかく今は休養を取ることが必要なんです。ゆっくり体を休めて容体を見ながら、必要な処置はその都度ジックリと行っていくことにしましょう。」

医師の説明を聞くと俺達は礼を言って席を立ち、親父と恭子さんは梨華の入院の手続きのために、入退院受け付け窓口へと足を運んだ。俺は1人、病院の総合受付カウンター前のソファーに座り、ぼんやりと考え事をしていた。

『梨華は今、どんな気持ちなんだろう?何を考えているのだろう?』

俺は頬杖をついてぼんやりとそんなことを考えていた。目の前には体を病んだ人々が往来していた。普段生活をしているとなかなか気付かないが、これだけの多くの人々が何らかの病気を背負い、日々奮闘を繰り返しているのだという事実を俺はその時改めて体感した。健康であるということ、無くしてみないとその大切さは分からないと人はよく口にするけれど、病院という普段あまり足を踏み入れることの無い空間の中に身を置いてみると、普段健康にはあまり気を使うことの無い自分というのが、いかに幸せ者であるかということが身にしみて感じられる。

「晃治、今夜はもう梨華には会えないそうだから、家に帰ろう。」

俺がぼんやりと考え事をしていると、入院の手続きを済ませた親父と恭子さんが傍らにやって来て、そんな風に語りかけた。

「ん。」

そう言って席を立つと、俺達3人は肩を並べて家路へとついた。


翌日、俺達は家族3人揃って梨華の病室へとお見舞いに行った。

『トントン』

親父が病室のドアをノックすると中から梨華の声が聞こえてきた。

「どうぞ。」

梨華の声を聞いて親父が病室のドアを開ける。そこにはベッドに横たわってこちらの様子を伺っている梨華の姿があった。

「...梨華!大丈夫か!?」

前日に川合医師に感情的にならずに落ち着いた態度で接するようにという忠告を受けていた親父だったのだが、ベッドに横たわる梨華の姿を目の当たりにすると声を震わせて梨華の元へと駆け寄っていった。

「...お父さん、お母さん...。」

梨華はそう言うと、親父と恭子さんの方を見て微笑みを浮かべた。昨日、医師は『記憶の混乱が見られる』と言っていたので、俺達はそれこそ初めは腫れ物に触るような感じで梨華に接したのだが、梨華はしっかりと俺達家族のことを覚えているようだった。

「り〜か〜!!お父さん心配していたんだよお〜!!」

親父はそう言うと、梨華のことをしっかりと抱きしめた。

「ゴメンね、心配かけて...。お母さんも...。」

恭子さんはハンカチで目頭を押さえて、無言でウンウンと頷いていた。

「全く、人騒がせな奴だよ、お前は。」

2人の背後から、俺はそんな風に嘯いて見せた。

「晃治、お前って奴は...何て口の利きざまだあー!」

そう言って親父は猛然と俺に噛み付いてきた。

「あーあー、うるせーうるせー。親父は相変わらずだろ、梨華。」

「?」

俺の言葉に対して梨華はキョトンとした様子でこちらの方を見ていた。

「おいおい梨華。冗談やめろよ。」

「...えーーと...。」

梨華の目は真剣だった。

「お父さん、お母さん...この人は...?」

病室の中が水を打ったように静まり返った。恭子さんが動揺した様子で梨華に語りかける。

「何言ってんの梨華。お兄ちゃんじゃない。お兄ちゃんのこと忘れちゃったの!?」

「...おにい...ちゃん?」

そう口にすると同時に梨華は頭を抑えて苦しみだした。

「 ― っゥ!!...ぁ...?!...!」

親父が慌ててナースコールのボタンを押す。看護婦と共に一人の若い医師が病室へと駆け込んできた。俺達は成す術も無いままに、ただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。


「ショック性の記憶喪失です。梨華さんの記憶からはお兄さんに関する記憶のみがスッポリと欠落しています。お兄さんに関する事柄だけではなく、これから生活をしていく上で、随所でさっきのような記憶の欠落に伴う発作症状が起こる可能性があります。ある程度時間を置けばその症状は緩和されますが、酷く苦しむような場合には錠剤を出しておきますので、それを飲ませてやってください。」

眠りについている梨華、その周りを取り囲むように立ち尽くす俺達家族3人に対し、若い医師は極めて事務的な態度でそんな風に口にした。

俺はその言葉を聞いて愕然とした。

『梨華の中に俺の記憶が無い?!』。

それは非常に冷酷で切ない宣告だった。俺は俄かにはその話が信じられなかった。梨華が今まで俺と共有してきた時間・空気を忘れ去ってしまっただなんて、どうしても信用することが出来なかった。『タチの悪い冗談を言っているだけなのなら、もう止めにしてくれ。』 誰の口からでも良い、『冗談だよ。』という言葉を聞くことが出来れば、それだけで俺は救われる、そんな風に思った。しかしそれは揺るがし難い事実として、俺の目の前に非情なまでに堆く積み重なり立ちはだかった。俺は病院の屋上へと駆け出していた。気紛れな夏の風が俺の頬の涙を拭い去ってくれることを願い、俺は屋上へと駆け出していた。

屋上には人の姿は無かった。俺はポケットに入っていた梨華の携帯電話を取り出した。


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俺は梨華が編集途中だったメールの文面を目で追っていた。メールの中で梨華は俺のことが好きだと言ってくれていた。それは昨日までの梨華の心の中にあったリアルな感情だった。しかし、今の梨華はもう自分が抱いていたそんな感情さえも忘れ去ってしまっている。俺は失われてしまった想いの掛け替えの無さを痛感し、独り、声を出さずに静かに泣いた。

「お兄ちゃん...。」

背後から俺を呼ぶ声が聞こえた。俺は涙を拭うとゆっくりと後ろを振り返った。そこには恭子さんの姿があった。

「大丈夫?」

恭子さんはそう言って俺の右肩にそっと手を置いた。

「ヘヘヘ...、うん。」

俺はそう返事して笑顔を見せた。恭子さんは俺の目が赤くなっていることに気付いたのか、俺の肩に置いた手にギュッと力を込めた。俺は持っていた携帯電話を恭子さんに手渡した。

「...それ、梨華が昨日俺に送ろうとしていたメール...。」

恭子さんは携帯電話のディスプレイをジッと見つめた。

「...そうなんだ...。知っていたのね、梨華は...。」

恭子さんはそう言って小さく一つ息を吐いた。

「...そう。知っていたんだ、梨華は。...でも、今はもう知らない...。」

そう言って俺は下唇をギュッと噛んだ。

「携帯電話、母さんが梨華に返してあげて...。そのメールもちゃんと削除してから、梨華に返してあげて。俺には捨てることが出来ないや、そのメール...。」

俺がそう言うと恭子さんは暫く何かを考え込むようにすると、コクリと頷き俺の申し出を受け入れた。

「分かったわ。ちゃんと梨華に返しておくから。」

恭子さんはそう言って空を見上げた。頭上には紺碧の空に折り目を入れたかのような、真直ぐな白い飛行機雲が一直線に伸びていた。


恭子さんと共に病室に戻ると、そこには後藤と本間の姿があった。親父の話によると、2人の顔を見た時に梨華は軽い頭痛を覚え混乱した様子だったが、暫くするとその混乱も治まり、記憶の糸を手繰り寄せることに成功したようだった。ただ、やはり本間と後藤との記憶に関しても、俺に関連する記憶の部分だけは梨華の中ではスッポリと欠落しているようだった。その事実を知った時に、本間と後藤は尋常でなく驚いて見せた。やはり梨華が俺のことを忘れてしまっているということは、2人にとっても相当のインパクトを与えたようだった。俺は2人を喫茶コーナーに誘い、梨華の容体の経過に関する話等をした。

「今日はありがとうな。わざわざ見舞いに来てくれて...。」

俺は神妙な口調で本間と後藤に対して礼を言った。

「いや、そんな...。」

本間は謙遜してそんな風に口にした。本間はコーヒーを一口飲み、こんな風に続けた。

「いやね、俺ぶっちゃけて言っちゃうと自分が情けなくてしょうがないんですよ。あの光景を目の当たりにした時、足がすくんじゃって動くことが出来なかったんですよ、俺...」

本間は火災の時のことを目を閉じて回想していた。

「石川先輩は凄いです。俺には...俺には真似が出来ません。」

そう言って本間は手を組んで静かに項垂れた。

「私も ― 。」

本間に続いて後藤が口を開いた。

「私もあの時、何もすることが出来なくて...。梨華ちゃんが中にいるのに、先輩のことを踏みとどめることしか私の頭の中には無くて...。ダメですよね、いくら奇麗事ばかり口にしていても、いざと言う時に咄嗟の行動を取ることが出来ないんじゃ...。私ってホント、ダメです。」

そう言って後藤もまた静かに項垂れた。

「...何言ってるんだよ。」

項垂れる2人に向かって、俺はこんな風に言った。

「俺だって...1人だったら梨華のことを助けられなかったよ。」

そう言うと俺は後藤の方を見てこんな風に続けた。

「後藤 ― 。」

「ハイ?」

後藤は顔を上げて俺の方を見た。

「もし後藤があの時、梨華が物置小屋の中にいるって言わなかったら、俺は梨華が何処にいるのか、きっと分からなかったよ。」

後藤は俺の言葉にコクンと頷いて見せた。

「本間 ― 。」

「はい。」

俺は本間の方に向き直って、言葉を続けた。

「本間が手渡してくれたタオル、あれは本当に役に立ったんだ。あれは俺と、そして梨華の頭を守ってくれたんだ。あのタオルが無かったら、俺達はもっと酷い火傷を負っていたかもしれないんだ。」

「......。」

本間は何も言わずにギュッと自分の手を握り締めた。

「皆がいたから、梨華は助かったんだ。誰か1人でも欠けていたら、もっと違った方向にコトは進んでいたかもしれない。」

俺はそう言ってコーヒーを口にした。

「そうですよね。」

後藤がそんな風に口を開いた。

「そうですよね。きっと皆の思いが、梨華ちゃんを救ったんですよね。」

「ああ。」

俺は後藤の言葉に、そう相槌を打った。

「でも、一番強かったのは先輩の梨華ちゃんに対する想い、だったんですよね...きっと...。」

「......。」

後藤の言葉に対して、俺は何も言えなかった。代わりに本間が、ウンウンと力強く頷いて見せた。

「そうですよ。石川先輩の想いが、きっと何よりも重要だったんですよ。」

本間は腕組みをして、そんな風に言葉を続けた。

「何言ってんだ...俺は兄貴としてやれるだけのことをやった。ただそれだけのことだよ。それ以上の感情も、それ以下の感情も俺には無いよ。もし仮にそんな特別な感情があったとしてもだ...。」

そこまで言ったところで、俺はやり場の無い無情な悲愴感に襲われた。俺は俯いて小さく肩を震わせながらこう続けた。

「...梨華の中には、今までの俺はもういないんだ...。」

そう言って俺は、喫茶コーナーに面する内庭の風景を眺めるでもなく眺めた。その時の俺には本間の目も、後藤の目も直視することが出来なかった。溢れ出す感情の捌け口を、目の前にいる2人に求めることは俺には出来なかった。

「...すまない、何かしんみりしちまったな...。」

そう言って俺は鼻を擦り、軽く微笑んで見せた。

「そうだ!梨華ちゃんが元気になったら、また4人でどこかに遊びに行こうよ!ね、啓ちゃん!」

「ああ、そうだな。どこに行きたい?!真希?」

「う〜ん、そうだなあ、私あそこに行きたい、ほら最近出来たばかりの水族館と遊園地が合体したような所。何て言ったっけなー?」

「あぁ、”シー・ミュージアム” か。うん、あそこいいね。梨華さんも絶対喜ぶと思うよ!」

「暑い時には涼しげな水族館!ね、先輩も一緒に行こッ!」

2人は俺の気持ちを察してか、明るく振舞って見せた。そんな2人の心遣いが俺は素直に嬉しかった。

「そうだな!夏休みの思い出に、パァーっと遊ぼうゼ!パァーっと!!」

そう言って俺は、両手を広げて見せた。

俺は前を見て歩いて行こうと思った。失われてしまった時を振り返り嘆き悲しむことよりも、これからの梨華との掛け替えの無い時間を大切にして行こうと思った。梨華はそこにいるのだ、失われてはいないのだ。俺は大声で笑った。感傷的な気持ちを吹き飛ばすかのように、俺は大声を出して笑った。


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【 15 】 ― 涙

入院5日目にして梨華は無事に退院することが出来た。時折頭痛を訴えることもあったが、生活をする上での支障は見られず、容体は安定していた。俺に関する記憶は相変わらず欠落しているようだったが、俺達が家族であるという事実には変わりは無く、一つ屋根の下、また家族4人での生活がスタートしたのだった。新生活をスタートするに当たって、俺は密かな思いを胸に毎日を過ごして行こうと心に決めていた。梨華は最初のうちは俺との接触に戸惑いと警戒心を隠せなかったが、生活を共にしていくうちに徐々にではあるが心を開いてくれて、表面上は以前となんら変わりの無い生活を送ることが出来ていた。


そんなある日、俺が自分の部屋で本を読んでいると、携帯電話の着信メロディーが鳴り響いた。俺は手にしていた本をテーブルの上に置き、携帯電話を開いた。ディスプレイには本間の名前が映し出されていた。俺は通話ボタンを押して電話に出た。

「お掛けになった電話番号は現在使われておりません...。」

俺は鼻をつまんで、機械音をまねてそんな風に答えた。

「ああ、そうですか...って、石川先輩!いるんでしょっ!」

「...チッ、半音低かったか...。」

俺はそう言って、舌打ちをした。

「...いや、高い低いは関係ないんですけどね...。」

本間は呆れた口調で、そんな風に言った。

「ところで石川先輩、この間言っていたじゃないですか、4人で遊びに行こうって。で、明後日の午後1時にシー・ミュージアムの前で待ち合わせってことで真希の確認は取れたんですけれど、石川先輩と梨華さんの予定の方は大丈夫かなぁ、と思って電話したんですけど...。」

「あー、そっかそっか。ちょっと待ってくれよな。今、梨華の部屋に行って直接聞いてみるからさ。」

そう言って俺は自分の部屋を後にして、梨華の部屋へと向かった。

『 コンコン 』

俺は梨華の部屋のドアをノックした。しかし、部屋の中からは返事の声は聞こえて来なかった。

『 コンコンコン 』

もう一度ノックを繰り返したのだが、やはり返事は無い。

「あれ?いないのかな?」

俺は状況を報告するかのように、受話器越しにそんな風に呟いた。そうしてドアノブを手にして回してみると、ドアノブはすんなりと右に回転した。

「あれ?開いてる...。」

俺はそのまま梨華の部屋へと足を踏み入れた。梨華は俺の方に背を向けて、机に座って携帯電話のディスプレイを頬杖をつきながらボンヤリと眺めていた。そして一つ、大きな溜息をついた。

「...ハァーー...。」

「何だよ梨華、いるんじゃねえかよ!」

俺は梨華の背中に、そんな風に言葉を投げかけた。梨華は 『あれ?』 という素振りをして、背後を振り返った。

「お、お兄ちゃん!」

梨華は慌てて携帯電話を折り畳み、それをギュッと手の平で包み込んだ。

「な、何でお兄ちゃん勝手に人の部屋に入ってくるのよぅ!もう!!」

そう言って梨華は頬を膨らませた。俺は携帯電話を耳に当てたままの姿勢で、梨華に対してこう弁明した。

「いや、2回もノックしたんだけど返事が無いからさ....。で、鍵も開いてたから、つい、な...。」

「へ!?ノックしたの?」

「うん、2回も...。」

そう言って俺は、梨華に向かってVサインをして見せた。

「やだ、全然気が付かなかった!ごめんなさい!...ちょっと考え事してて...。」

そう言って梨華が、ハッとしたように口に手を当てながら謝罪をする。

「...も、もしもしぃ?石川先輩??」

受話器の向こうで状況が把握出来ていない本間が、俺に対して状況の説明を求めるかのようにそう問い掛けてきた。

「...ああ、ちょっと待ってくれよな本間。今、梨華に確認取るから。」

「はい...。」

俺は通話口を手で押さえると、梨華に対してこんな風に質問をした。

「梨華、明後日って何か予定入ってるか?」

「...ううん、別に...。」

「俺と本間と後藤と梨華とでさ、水族館に遊びに行かないかっていう本間からの電話なんだ、これ。」

「うん、梨華は大丈夫だよ。OK、OK。」

俺は梨華の言葉を聞くと、携帯電話を耳元に持ってきて本間との通話を再開した。

「あ、もしもし本間?ああ、OKだってよ。うんうん、そう。んじゃあ、明後日午後1時にシー・ミュージアムの前でな。うん、じゃあな。」

俺はそう言うと電話を切った。

「...大丈夫か、梨華?調子悪いんじゃないのか?」

俺は梨華の様子を心配して、そんな風に問い掛けた。梨華は右手をパタパタと振って、それを否定して見せた。

「ううん、そんなこと無いよ。大丈夫...。」

「そっか、ならいいんだけどな...。あ、明後日だけど現地に午後1時に集合だから、昼飯食べた後、12時位にウチ出れば間に合うだろ。まあ取り合えず、そんな腹積もりでいてくれ。」

「...うん、分かった。」

梨華の返事を聞くと、俺は梨華の部屋を後にした。


8月23日午後12時45分、俺達は八景島 シー・ミュージアムの入場口に到着していた。本間と後藤の姿は、まだそこには無かった。俺と梨華は入場口横にあるベンチに腰を下ろして、本間達の到着を待った。夏休み中ということもあり、多くの家族連れが入場ゲートをくぐって園内へと足を運んでいた。暫くすると本間と後藤が走ってこちらにやってくる様子が見て取れた。太陽が燦々と輝いているにもかかわらず、本間達は懸命に入場口へと向かって走っていた。俺達の元にやって来た時には2人は肩で息をして、約束の時間に遅れてもいないのに謝罪の言葉を口にしていた。

「...す、すみません。遅くなりましてぇ...。」

額に汗を浮かべながら本間がそう口にする。

「大丈夫だよ本間。まだ約束の時間の5分前だからさ。」

そう言って俺は腕時計に視線を落とす。

「電車が電気系統のトラブルとかで遅れてて...。」

そう言って本間はポリポリと頭を掻く。

「もう、だからもうちょっと早めに出ようって言ったじゃない、啓ちゃん!」

そう言って後藤が本間の背中をドンと叩く。

「...まあまあ、こうして無事に着いたわけだし、いいじゃん。」

そう言って俺は後藤をなだめた。休息も兼ねて暫くそんな風に世間話に花を咲かせていると、時計の針は約束の時間である午後1時を指し、俺達はフリーパスを購入して園内へと入っていった。

園内に入ると、俺達は先ず水族館へと向かった。水族館に入り俺達の目を引いたのは、何と言っても高さ8mはあろうかという大水槽だった。大水槽の中では、熱帯地方の海水魚が群れを成して悠々と泳ぎまわっていた。巨大な水槽を目の前にしてベンチに座っていると、自分がまるで海の底に潜り込んでしまったかのような錯覚にとらわれた。

「わぁ、キレイだねー。」

梨華が無邪気な笑顔を浮かべて、そんな風に口にする。

「ホント...。別世界だね...。」

梨華の隣にいる後藤も、そんな風に感嘆の声を漏らす。

「...凄いねぇー。『神様のブックマーク』。」

「あ、梨華ちゃん、ウマイこと言うねぇ!そっか、『神様のブックマーク』、か...。」

梨華の言葉に後藤がそう言って賛同を示す。 ”神様のお気に入り”、梨華も魅力的な詩的センスを内に秘めているんだな、と俺は関心して頷いた。目の前に広がる光景は、溜息が出るほど神秘的で圧倒的だった。薄暗い館内で、俺達は時間の過ぎるのも忘れて目の前の光景に惚けていた。刺すような夏の暑さから隔絶した館内で、その後もしばらくの間、俺達はペンギンやシロイルカの紡ぎ出すファンタジーの世界に心地良くその身を委ねていた。


水族館で涼しげな水と氷の世界を満喫した俺達は、今度は外へと飛び出して様々なアミューズメント施設を楽しんだ。ここで俺が驚いたのが、前回遊園地に行った時にあれほど絶叫系のマシンを怖がっていた後藤が、今回の水上コースターに関しては、非常に楽しげに乗っているということだった。前回は搭乗中に一言も言葉を発しなかった後藤であったのだが、今回は楽しげに悲鳴を上げてジェットコースターのスリルを満喫している様子が見て取れた。さそしてらには、高さ100mから垂直落下するフリーフォールすらも後藤は楽しんで乗っていた。本間や梨華がこの手の乗り物が大得意であるということは周知のことなのだが、俺でさえも恐怖心を抱くこのフリーフォールに後藤が嬉々として搭乗しているさまに俺は驚きを隠せなかった。

暫くアミューズメント施設を楽しんだ後、俺達は休憩を兼ねてカフェでコーヒーを飲んだ。

「面白かったねー。フリーフォール。だってさあ...。」

「うんうん。あとやっぱり大水槽!?あれは凄いよねー...。」

水族館とアミューズメント施設の話題に花が咲く。

暫くそんな話をしていると、突然後藤がこんな風に提案をしてきた。

「ねえねえ、これから2対2に分かれない?先輩と私、啓ちゃんと梨華ちゃんに。」

あまりにも突然の提案に俺は戸惑ったのだが、後藤の提案に本間が便乗してきた。

「あ、いいねソレ!そうしよ、そうしよ!!」

そう言うが早いか、本間は梨華の手を取って外に出て行ってしまった。

「ねぇ、先輩...。私達も行コ!」

「ああ。」

そう返事をすると、俺達も席を立ってカフェを後にしていた。


俺と後藤は再び大水槽の前に来ていた。俺達は大水槽前のベンチに腰を下ろして、目の前に広がる光景に見入っていた。

「やっぱり、キレイだねぇ...。」

後藤がそんな風に口にしていた。

「...ああ...。」

俺はそう相槌を打った。

「でも今日は楽しかったなあ、本当に...。」

そう言って後藤は今日一日の出来事を回想した。

「でも今日はビックリしたよ。後藤、いつの間に絶叫系の乗り物克服出来たんだ?フリーフォールとか乗ってる時も、今日はメチャクチャ楽しそうだったじゃないか。」

俺は後藤にそんな風に問い掛けていた。後藤はチャーミングな微笑みを浮かべると、こんな風に話し始めた。

「うん!何だろうなぁ、何か『怖い』っていう感情よりも、『楽しい』っていう感情の方が強くなったんですよね。ほら今日乗ったジェットコースターって、キラキラ輝く海が見えて本当にキレイだったじゃないですか。だからあんまり怖いって感じは無かったし、で、『 アレ?怖くないゾ?』と思って勢いでフリーフォールに乗ってみたら、これがまた面白くてね!何か、『癖になっちゃいそ〜!』って感じで。」

「そっか...。良かったじゃん。」

俺は微笑みを浮かべて、そう後藤に語りかけた。

「ヒトの気持ちって不思議ですよね....。儚くて、遷ろい易くて、でも頑なに変化を拒む部分もあったりして...。」

後藤は神妙な顔つきをして、そんな風に口にした。後藤は掠れるような声で、こう話を続けた。

「...ねぇ、先輩...。」

「ん?」

俺は水槽から後藤の方へと視線を移し、後藤の話に聞き入った。後藤は水槽に視線を向けたままの姿勢で話を続けた。

「...もし、あの雷の日に、物置小屋の中にいたのが梨華ちゃんじゃなくて私だったとしたら、先輩はあの時と同じように、私のこと助けてくれましたか...?」

「...当たり前だろ!?助けたに決まってるよ!」

俺は後藤の質問に対して語気を強めて、そう答えた。後藤は水槽から俺の方に視線を移して、こんな風に質問を続けた。

「それは単なる知り合いだからですか?それとも先輩にとって私が、掛け替えの無い大切な存在だからですか?」

後藤は真摯な眼差しを俺に向けて、そんな風に尋ねた。

「それは...。」

俺は後藤の問いに対しての答えを言い淀んでいた。俺のそんな様子を目の当たりにすると、後藤は微笑みを浮かべながらこんな風に言葉を続けた。

「先輩が梨華ちゃんを助けた時、私は心の中で、『あぁ、先輩の隣にいるべき人は私じゃなくて、梨華ちゃんなんだなあ』って思ったんです。あの時の先輩の目は、愛する人を守るために立ち上がる、屈強でひたむきな男の人の目でした。その目を見た時に私、確信したんです。『先輩の心の一番深い部分にいるのは、私じゃなくって梨華ちゃんなんだ』って...。」

俺には後藤の言葉を否定することが出来なかった。その時俺の心の中には、後藤のことを想う気持ちよりも、梨華のことを愛しく想う気持ちの方が強く渦巻いていた。俺の気持ちをズバリと言い当てた後藤に対して、俺は殆ど無意識のうちに謝罪の言葉を口にしていた。

「...すまない...後藤...。」

そう言って俺は後藤に対して頭を下げていた。後藤は腕組みをして頬を膨らませて、俺のことを睨んでいた。

「...先輩...私のことをフッた代償は高いわよ...。分かってる...?!」

後藤は脅すように、低い声でゆっくりとそう言い放った。普段見たことの無い後藤の表情を目の当たりにして、俺は緊張した。

「ああ...。」

俺はそう返事をすると、後藤の目をジッと見つめた。後藤は不敵な表情を浮かべると、氷のように刺すような冷たい視線で俺に向かってこう言った。

「...殴らせて。5、6発、グーで顔面を...。」

そう言って後藤は、ポキポキと指を鳴らした。

「前に私をフッた男は鼻が曲がっちゃってねえ...。結構イイ男だったけど、見れたもんじゃなかったわ。フフフ...。」

俺は正直、心の中では、『ヒェ〜...』と思っていたが、後藤のことを傷つけてしまったことに関しては俺自身に責任がある訳だから、後藤のどんな仕打ちにも耐えようと腹を括った。

「分かったよ。好きにしていいよ。」

後藤は不敵に微笑むと、俺の肩に手を置いてこう語りかけてきた。

「...じゃあ目を瞑って...。血の吹き飛ぶ瞬間の目を見ちゃうと、寝付き寝起きが悪くなっちゃうから...。」

俺は後藤の促すままに、静かに両目を閉じた。

「いくよっっ!!」

後藤の声と共に、俺は歯を食い縛った。

『 チュッ 』

俺の顔面に痛みは無く、代わりに柔らかい弾力のある感触が俺の唇を塞いでいた。俺が驚いて目を開けると、目の前には後藤の顔がほんの数ミリの所まで接近していた。仄かなレモンの香りが俺の鼻腔をくすぐった。暫くの間俺達は無言のままに、お互いの唇を重ねあっていた。

「...ん...。」

小さく艶やかな嬌声を発すると、後藤はその唇を離した。俺は驚いた表情のまま、後藤の表情をジッと窺う。後藤は頬を紅くしたまま、恥ずかしそうに俯いてこう言った。

「今ので...今ので私の気持ちの仇は取ったから、もう私に遠慮する必要は無いよ、先輩!」

そう言って後藤は、顔を上げてニッコリと笑った。俺は放心状態のまま、こんな風に口にしていた。

「...えっ、じゃあ『グーで殴る』とか『鼻が曲がった』とか言うのは...?!」

俺がそんな風に言うと後藤はお腹を抱えながら笑い、こんな風に答えた。

「アハハハ...、やだぁ先輩!私、人を殴ったことなんて無いですよぉ!冗談ですよ!じょ・う・だ・ん!!」

そう言って後藤は、俺の背中をバンバンと叩いた。

「...凄いな後藤...。お前演技力あるよ、絶対。だって俺、本気で信じてたもん。将来はきっと名女優だな、うん。」

そう言って俺は感心して見せた。

「...えーっ、そんな、やだなぁもう...。」

後藤はそう言って、照れ笑いを浮かべた。

「!?...って、今何時ですかっ、先輩!?」

後藤が突然慌てた様子で、そんな風に俺に尋ねてきた。

「えっ!?えっとぉ、5時56分だな。」

俺は腕時計に目を落とすと、そんな風に答えた。

「ヤッバーイ!!あと4分しか無いじゃない!!」

そう口にすると後藤は、俺に対してこんな風に言った。

「先輩!観覧車、観覧車のある所まで走って下さい!今すぐに!!」

そう言って後藤は俺の背中を押した。

「え!?観覧車!?観覧車が一体どうしたって言うんだよ?」

俺は振り返って、後藤にそんな風に尋ねた。

「いいから!観覧車の所に6時までに行って下さい!!お願いします!」

後藤はそんな風に俺に懇願した。俺は腕時計を睨むと外に向かって駆け出した。時刻は5時57分。後藤の言っていた時刻、6時まではあと3分しかなかった。建物の外に出ると、俺は観覧車のある方向に向かって一目散に走り始めた。どういう道順で観覧車まで行けば一番早いのか俺には分からなかったが、とにかく俺は観覧車の見える方へと必死になって走った。5時59分37秒、俺は後藤の言った通り、6時前に観覧車の前までやって来ていた。俺が汗を拭いながら辺りを見回していると、背後から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。

「...おにい...ちゃん!?」

振り返ってみると、そこには梨華の姿があった。

「...梨華...。」

俺はそう言って梨華の側へと歩み寄って行った。

「何やってるんだ、こんな所で?」

俺は梨華に対して、そう質問をした。

「本間さんに『6時に観覧車のところに行って下さい』って言われて、それで来たんだけど...。」

梨華は自分のしている腕時計に目を落としながら、そんな風に口にした。

『やれやれ...アイツら...。』

俺は心の中でそう呟くと、額の汗を拭った。

「お兄ちゃん、凄い汗だよ。大丈夫?!」

そう言うと梨華はポケットから白いハンカチを取り出し、俺の額の汗を拭った。

「あぁ、大丈夫大丈夫。サンキュ。」

俺は梨華に礼を言うと、観覧車を見上げてこう口にした。

「...せっかく来たんだし、一緒に乗るか、観覧車...?」

「...ウン...。」

梨華もまた俺と同じように観覧車を見上げながら、そんな風に返事をした。


「うわー、キレイだねぇ!見て、お兄ちゃん!」

梨華がはしゃいで、そんな風に口にする。

「ああ、きれいだな。」

俺も梨華の意見に同意する。俺達の眼下には夜の遊園地と水族館が美しくライトアップされていた。遥か彼方には水平線を臨むことができ、夜空よりも暗く広がる海の圧倒的な存在感に、俺は畏怖の念にも似た感情を抱いていた。

『夜の海には全てを許容する懐の深さと、神秘的な荘厳さがあるよなぁ...』

俺はそんな風に思いながら、一人ウンウンと頷いていた。

「なに?お兄ちゃん。どうしたの?」

俺の様子を見て、梨華がそんな風に尋ねてくる。

「いや、夜の海って何か神秘的っていうか、荘厳な感じがするなって思ってさ...。」

俺は素直に自分の心情を吐露した。

「うん...そうだね。夜の海って何だか見ているだけで今までの全ての嘘や罪が浄化されて、身も心も軽くなるような、そんな不思議な感じがするよね...。」

梨華の言葉に俺は頷いて見せた。水族館の大水槽、そして夜の海。これ以上に神秘的なシチュエーションというのにはそうそうお目にかかる機会は無いのだろうな、と俺は心の中で思った。

「どうだ、梨華。今日は面白かったか?」

俺は今日一日の感想を梨華に聞いた。

「うん。とっても面白かったよ。皆、本当にいい人ばかりだし、梨華って幸せ者だね〜♪」

そう言って梨華は、ニッコリと笑って見せた。

「...ホントにみんな、いい人達ばかり...。」

独り言を呟くように、梨華がそう繰り返す。

辺りを夕闇が包んでいった。海鳥が家路に着くために、群れを成して大空を舞っていた。

「...ねぇ、お兄ちゃん。」

暫くの沈黙に包まれた後、不意に梨華が口を開く。

「ん?」

「さっき本間さんと2人になった時、色んな話をしたんだぁ〜...。色々、色々...。」

梨華はそう言って静かに目を閉じた。恐らく今日の本間との会話を回想しているのだろうと俺は思った。暫くの間梨華は目を閉じて、様々に思いを巡らしているようだった。俺はそんな梨華の様子を黙って見つめていた。

暫くすると、目を開けて梨華は言葉を続けた。

「...お兄ちゃん...。」

「...ん?...。」

俺は労わるように梨華を見つめながら返事をした。梨華は何か不安げな表情を浮かべながら、こう言葉を続けた。

「もしも、もしもなんだけど...本間さんと梨華が恋人同士になって付き合うってことになったら、お兄ちゃんはどう思う?」

それは以前4人で遊園地に行った時に、梨華が俺に対してした質問と同じ質問だった。あの時俺は、『本間と梨華が付き合うことになったら嬉しく思う』、『本間はいい奴だと思う。だから出来るだけ応援する』などと答えていた。梨華が記憶を失っているということから、それは過去の記憶を振り返って発せられた言葉ではなく、梨華の純粋な疑問の心から発せられた言葉であろうと俺は思った。俺はその時の自分の素直な気持ちを吐露していた。

「....俺は嫌だ。梨華が他の誰かのものになってしまうなんて、俺には我慢が出来ない。」

「......。」

俺の答えに対して、梨華はジッと俺の目を見たまま一言も言葉を発しなかった。俺は梨華を見つめて言葉を続ける。

「...梨華...。」

「ん...。」

梨華は掠れるような声で返事をした。

「俺な、決めたことがあるんだ。」

「...うん...。」

梨華は神妙な面持ちで、俺の話に耳を傾けていた。

「梨華、お前は俺との昔の記憶を無くしてしまった。それは正直に言ってしまうと、とても辛い...。」

「......。」

梨華は無言のままで俺の言葉の続きを待った。俺は言葉を続ける。

「でもな、俺思ったんだ。思い出さなくてもいいって。過去なんか振り返る必要は無いんだって。俺はこれからもずっと梨華の傍で、梨華のことを見守って行きたい。兄貴としてではなくて、1人の男として、梨華と正面から向き合って生きて行きたいんだ。これから先も、ずっとずっと梨華の傍にいるんだ...って、俺決めたんだ...。」

俺はそう言うと、小さく一つ深呼吸をした。夕凪が俺達を優しく包み込み、カタカタという観覧車の乾いた単調な駆動音だけが辺りには響いていた。俺は梨華の目をジッと見つめた。そして自分の偽らざる気持ちを梨華に告げた。

「― 愛しているよ。梨華。」

俺は梨華に告白をすると、ギュッと自分の両方の拳を握った。『とうとう言った。』という達成感、そして 『言ってしまった。』という自責の念が、俺の胸中には同居していた。ずっと伝えたかった、しかし 『兄妹』 というしがらみから、今までずっと伝えることの出来なかった想い―。禁じられていた愛の言葉を口にすると、俺の胸の鼓動はトクトクと高鳴っていった。俺には果たして梨華がどんな反応を示すのか見当が付かなかった。拒絶されるのか、受け入れられるのか、無視されるのか、軽くいなされるのか....。俺には梨華のリアクションを直視することが出来なかった。俺は自分の拳に視線を落としたままで、緩慢な時の流れに身悶えしていた。その時 『フッ』 と梨華のシャンプーの香りが俺の鼻腔をくすぐった。梨華に何らかの動きがあったのだということを俺はそのことで察知した。

『俺は自分の思いの丈を伝えたんだ!あとは...あとは、梨華がどう判断するかだけなんだ!』

俺は意を決して、正面に座っている梨華の様子を窺い見た。

『!?』

正面に座っている梨華は、項垂れて深く肩を落としていた。

『自分の思いを伝えたことによって...梨華を傷付けてしまった...』

梨華の様子を見て俺はそう思った。しかしよくよく見てみると、梨華は項垂れた体勢のままで携帯電話を開き、ボタンをプッシュして何かを一生懸命入力していた。俺は無言のままで、梨華の一連の行動を見ていた。胸の高鳴りは一秒たりとも治まりはしなかった。

『ピロリン♪』

暫くするとメールの着信を告げる電子音がゴンドラ内部に鳴り響いた。俺は自分の携帯電話を取り出して、ディスプレイに目を移した。そこにはメールの受信を告げるマークが点滅を繰り返していた。受信BOXにはメールが一通届いていた。メールの差出人は他でもない、今目の前にいる梨華に間違いが無かった。俺は訝しげな表情を浮かべつつも、受信したばかりのメールを開いてその内容に目を通した。

「......!?」

梨華からのメールを見て、俺は自分の目を疑った ― 。


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02/08/23 18:20
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from : 梨華
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Sub : 好きだよ
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好きだよ、お兄ちゃん。

本当の妹以上に可愛がってくれて、今まで本当にどうもありがとう。

...これからも、もっともっと梨華のことイッパイ可愛がってねー。(^▽^)♪

梨華はお兄ちゃんのこと、ずぅーっと前から好きでした。そしてこれからも、ずーっとずーっと愛していま〜す!!
==================== ---- END ----
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「...このメール...。」

それは俺が恭子さんに破棄を依頼したはずのメールと内容が酷似していた。忘れようが無い、忘れるはずが無い。恐らく俺はそのメールの内容を死ぬまで忘れることは無いだろう。俺の心の一番奥底に強く強く生き続けている、あの時の梨華からのメール ― 。

しかし、その時に俺が受け取った梨華からのメールは、以前俺が記憶していたものとは微妙ではあるが明らかに内容が異なっていた。

「...わたし、思い出したんだぁ。お母さんがこのメール見せてくれて、私は大切な人との大事な思い出を忘れてしまっていたんだぁ、って気が付いたの。最初、そんな感情は忘れたままの方が良かったんじゃないか、その方が物事が丸く収まるんじゃないかって思ってたんだけど...でも...やっぱりダメだ...。自分の気持ちに、これ以上嘘はつけないよ、ワタシ...」

「...梨華...。」

その時になって初めて、俺は梨華が記憶を取り戻しているということに気が付いた。 梨華は恐らく全てを思い出した後、独り、自分が今後どのように振舞えばよいのか悩み抜いたのだろう。俺のこと、本間のこと、後藤のこと...。 皆にとってどうするのが一番幸せなことなのかを、独り煩悶したのだろう。堰を切ったように梨華の瞳からは、とめどなく涙が溢れ出していた。それは悲しませることになってしまうであろう人々に対する謝罪の涙、そして、今まで自分の胸の内に必死で押し止めてきた、感情の発露であったのだろう。梨華の涙は止まらなかった。

「愛してるよ、お兄ちゃん。誰よりも、何よりも、お兄ちゃんを愛しているの!」

俺は立ち上がり、梨華のことを抱きしめていた。

「おにいちゃ〜ん、ゴメンねぇ....。お兄ちゃんのこと、例えほんの一瞬でも忘れちゃうだなんて、私、ワタシ ― 。」

梨華は俺の腕の中で泣きじゃくった。俺の胸は梨華の涙と吐息で熱く湿っていた。

「...梨華...。」

「...ヒック、ヒック...。」

俺は泣いている梨華の顔をあげると、その涙を拭ってやった。

「全く...相変わらず泣き虫だよ、お前は...。」

「だってぇ、だってぇ...。」

拭っても拭っても、梨華の涙は止まることは無かった。

「...おかえり、梨華...。」

そんな風に口にすると、俺の目からも一筋の涙が零れ落ちていた。

「...ただいま、お兄ちゃん...。」

梨華は笑顔を浮かべて、そう答えた。

『.........。』

見詰め合う俺と梨華。

俺達は無言のままに、お互いの唇を重ね合わせていた。

梨華との初めての口付けは、微かな涙の香りがした。


― 伝えられなかった思い、一度は無くしてしまったはずの思い ―


俺達を祝福するかのように、頭上では数え切れないほどの幾千の星々が、いつまでもいつまでも美しく瞬き続けていた。


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【 16 】 ― epilogue

「おにーちゃーん!!こっちこっち!ほら、すごいよぉ!!」

コスモス畑の中から、梨華が俺に向かって手を振る。川沿いは一面のコスモスに覆われていた。赤・白・ピンク、色とりどりのコスモスが競うように咲き誇っている。

「ゼェゼェ...お〜い、梨華...走るなよ〜。」

俺を尻目に、梨華はどんどん先へと進んで行ってしまう。

「フゥフゥフゥ...。」

俺は膝に手を付いて、その場に立ち止まった。空は突き抜けるように青かったが、もう暑苦しさは殆ど感じなかった。人影もまばらで、俺は暫くの間その場で佇んでいた。

「お・に・い・ちゃ・ん!!」

俺を呼ぶ声に顔を上げると、目の前にはいつの間に戻って来たのやら梨華の姿があった。

「お、飯!飯か、梨華!」

俺は嬉々として、梨華の持つバスケットに手を伸ばそうとした。梨華は持っていたバスケットを、俺の手からヒョイっとかわすと、

「まーだ、ダメ!向こうに着いてから!」

と言って俺に舌を出す。

「ムムムムム...。ダメ...?」

俺はそう言って、可愛らしく小首を傾げてみせる。

「ダーーメッ。」

そう言って梨華はバスケットを頭上に掲げる。

「...チェッ、なんでいなんでい!」

俺はそう言って、腕組みして頬を膨らませる。

「もういいよ!か・え・る!」

俺はそう言って、きびすを返した。

「あれ〜、いいのかなぁお兄ちゃん...。今日のタマゴサンドは、カイシンの出来だったのになぁ...。そっか、残念だなぁ...。」

『 ソヨソヨソヨ...。 』

そよ風が吹いた。俺は鼻をヒクヒクとさせて、バスケットから漂ってくるサンドイッチの匂いに神経を集中させた。

「よっしゃ!張り切っていこうゼ、梨華!ゴールは近い!」

そう言うと俺は梨華の手を握り、梨華を先導した。

「...まったく...お兄ちゃんったら ― 。」

そう言って梨華は微笑みを浮かべた。


柔らかな日差しが、川面に反射して眩く光り輝いていた。遠くからは、川辺で遊ぶ子供達の声が聞こえていた。

俺達は歩き始めた。ギュッと手を握り合って、日の当たる坂道を2人で足取りを合わせながら、俺と梨華はゆっくりと歩き始めた。


"sunny road " the end.
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■ あとがきにかえて ■

思えばこの小説は( 正確に言うならば『 純妄想系恋愛小説 』かな? )

『 もし娘。の中の誰かが自分の妹になるとしたら? 』

という、スーパーコンピュータ並みの処理速度を誇る我が脳内コンピュータを駆使して弾き出された、人知を超えたインテリジェンスとアミューズメント性に満ち溢れたテーマ及びそれに付随する...

ま、簡単に要約すれば、

『 ツマラナイ妄想 』

に端を発し、始まりました。妄想はたまにすることはあっても、それを形にして残すということは今までにしたことが無かったので、実際にやってみるとこれは予想していた以上に大変な作業でした。

結果、容量にしてペヤング三杯分(180K)にも及ぶ大作になってしまいました。

毎日姑にチクチクといぢめられながらもここまで何とか書き続けることが出来たのは、石川梨華師匠の神々しいまでの輝き、そして、数人ではありますが私のサイトを巡回してくれている方々が存在したからであります。ここで改めてお礼を言いたいと思います。

ありがとうございました。

このサイト、及び小説を読んだ感想等 メール でご意見を寄せていただければ嬉しく思います。

今後も頑張って 議員と女子高生の二足のワラジで 色々なコンテンツを取り揃えて行きたいと思っていますので、よろしくお願いします。


以上、...なぁんてあとがきチックなものを書き終えようとしていた所で、


アン・ビリーバブル


なニュースを目の当たりにしちまったい!


『 モー娘。さくら組&おとめ組に2分割…秋に再出発だ 』( 2003/01/28 )


...って、noー!noー!なんだコリア ☆!有り得ない有り得ない!や、ていうかむしろナシの方向で.........。って、決定!?クツガエスコトデキナイノ??ゼツタイニムリ...アアソウデスカ...。

...悲しくはありますが、これがUFA側の提示した娘。達の未来であるようです。

今秋以降、私はどんな思いで石川梨華師匠を見ていくことになるのでしょうか。そこに待ち受けているのは更なる飛躍でしょうか?人気の頭打ちと停滞でしょうか?

それとも......

果たしてその時私は、この小説をどんな思いで見返すこととなるのでしょうか?

どうか彼女(たち)に幸せな未来が訪れますように。切に祈って止みません。

以上(今度こそ)、あとがきにかえて作者 powa * powa より、でしたぁ。


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